【まあ、お茶でもしましょうか】前編:1杯分のお喋りで、すっきり、さっぱり
ライター渡辺尚子
小さな頃から好きな言葉があります。
「お茶でもしましょう」
なんてことのない言葉でしょう。このひとことで人生が変わる、なんてことはたぶんなさそう。
きいた端から忘れてしまい、また、忘れたところで、とくに困ったことはおきません。
けれどもやっぱり、この言葉が好き。なぜかは、わからないけれど。
わたしにとってお茶飲みの二人といえば、松野きぬ子さんと弘さんご夫妻。「松野屋」の屋号で、全国の荒物を扱っています。二人が暮らすのは、東京下町の浅草橋。ガラガラと戸をあけて
「こんにちはー」
と入っていくと、弘さんが出てきて
「あら、いらっしゃい。まああがって、お茶でもひとつどうぞ」
ふふ、やっぱりこの言葉! 口元がほころんでしまいます。この家に遊びにいくといつも、最初の一声は
「お茶でもどうぞ」
どんなに忙しくても、あたたかいお茶を入れて世間話につきあってくれるのです。
気持ちのいい朝を迎える、ちいさな習慣
鉄瓶を火にかけている間、
「玄関先の鉢植え、きれいに咲いてますね」
「テッセンね。今年はつぼみがずいぶんついたんだよ」
なんておしゃべり。
じきに鉄瓶がチンチンと鳴り始め、台所に湯気が広がります。急須でいれてくれるのは、あったかい緑茶。両手でお茶碗を包み込んで、一口飲めば、ホウ、と人心地つきます。
「あー、おいしい!」と言うと
「ただのお茶よー」と二人が笑っています。
松野家に、お茶の時間は欠かせません。
きぬ子さん:
「まず朝起きたら、おもてを箒で掃くでしょ、そのあと、両親の写真にお水をそなえて手を合わせるの。自分のお茶はそれからね。夏でも冬でも、熱くて濃いお茶のほうが好き。『あっつ』って思いながら飲むのが好きなの」
家業はとても忙しいし、だらだらしている暇はありません。それでも、ほんのちょっとした時間を見繕ってはお茶を飲み、よく喋り、よく笑います。
仕事や家事の合間にも、食事のあとでも
「ひとつ、お茶でもしましょう」
コーヒーを淹れたあとでも、
「最後に、一杯お茶飲む?」
お義母さんに誘われて始まったお茶の習慣
きぬ子さんが「結婚する前は、お茶なんてしなかったのよ」と笑いながら教えてくれました。
ご実家は、京都の牛乳屋さん。家族はお茶を飲む暇がないほどいそがしかったし、きぬ子さんだって、喉が乾いたら瓶入りのフルーツ牛乳をごくごく。
きぬ子さん:
「お茶を飲むようになったのは、この家にきてから。お義母さん(弘さんの母、冨久子さん)の影響かな」
二世帯暮らしを始めたとき、松野夫妻は四十代。きぬ子さんは子育てに家事に仕事と、目まぐるしい日々を送っていました。
きぬ子さん:
「毎日お義母さんが『きぬちゃーん、一休みして、お茶を飲みなさいよ』って声をかけてくれるの」
お茶の時間は日に2回、午前10時と午後3時。
弘さん:
「商いをしている家って、お茶の時間が決まってるんだよ。うちも職人さんが出入りしてたから、10時と3時になると、おふくろが必ずお茶とお茶菓子を出していて。その名残だろうね」
愚痴すら包みこんでくれる、不思議な空気
きぬ子さんは最初、お茶に呼ばれるのがいやだったそうです。そもそも甘いものが得意じゃないし、座って休憩すると、1時間ぐらいあっという間にたってしまう。仕事も家事も山積みなのに、手をとめて茶飲み話をするなんて!
きぬ子さん:
「でも、お茶を飲むのって、気分転換になるんですよね」
きぬちゃーん。
もう3時ですよー。
お茶にしましょうよー
お義母さんの声で茶の間へ向かうと、テーブルの上には、近所の和菓子店で買ってきたお団子や羊羹。なにもなければ、ドライフルーツ。時には手作りのパウンドケーキも。お義母さんが急須でお茶をいれてくれます。
きぬ子さん:
「お茶を飲みながらだと、いろんな話ができるでしょう。子育てのことや、家事のこと、仕事のこと。手仕事の好きな人だから、手芸やお料理を教えてもらったり。愚痴もたくさんきいてくれました。義母はさっぱりした人だから、『そうね、そうね』ときいてくれるの」
大人にも効く、魔法のことば
どんなありきたりな毎日でも、なにもない一日なんてありません。
そんななか、「まあ、お茶でもひとつ」とすすめられると、ほっとします。
とりとめもなく話すうち、少しだけ気が軽くなっている。一息つくと、本来の自分に戻れる気がする。
「お茶でもしましょう」
やっぱりわたしは、この言葉が好き。
やらなくてはいけないことが多くて、途方にくれたとき。
おいしいおやつを見つけたとき。
誰かがしょんぼりしているとき。
とくになんにもなくっても。
いつでも誰でも使える、ちいさな魔法の言葉です。
【写真】大沼ショージ
もくじ
松野きぬ子さん、弘さん
東京の下町で、昔ながらの味わいのある日用品を扱う「暮らしの道具 松野屋」を営んでいる。弘さんはブルーグラスのミュージシャン、きぬ子さんは手芸作家としても活躍中。著書に『あらもの図鑑』(新潮社)、 『松野家の荒物生活』(小学館)など。www.matsunoya.jp
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