
たとえば台所をのぞいたら、じゃがいもが1個だけ。そんなとき、「じゃがいもしかない…」と思うのでなく、「じゃがいもがあった!」とご機嫌になるのが、じゃがいも版画の山室眞二さんです。じゃがいも1個から楽しみを生み出す毎日は、もう50年近く続いており、86歳の今年は、美術館で展覧会も予定されているそう。前編ではそのつくりかたと、身近なモチーフなどをご紹介しました。後半は、山室さんのもうひとつの楽しみを教えていただきます。
前編をよむ働きながらも、好きなことはコツコツ続けてきた

山室さんに版画制作の楽しみをきくと、「同じものがざらざらっと並ぶ様子が好きなんでしょうね」という答えが返ってきました。
子どもの頃は木版画。大人になってからは、いも版画。学生時代にはガリ版印刷を習って、登山仲間と一緒に同人誌も作っていたそうです。70年近く前の話。今でいうリトルプレスやZINEのはしりです。山岳雑誌「アルプ」にも寄稿していました。山室さんは、書物が好きなのです。
勤め始めてからの休日は、活版印刷も楽しむようになります。
最近はパソコンを駆使する山室さんですが、部屋の隅には今でも小型活版印刷機が。活字は、少なくなった活字店を探しては、コツコツ集めたそうです。

山室さん:
「活版のおもしろさは、活字を並べたときの驚きです。ひとつひとつの活字は『あ』とか『イ』とか彫られていて、それ自体にはなんの意味もない。でも、組み合わせると意味が生まれるんです」
さらに製本も自分でおこなって、自主制作本を次々とつくりはじめました。「小袋谷通信」「雨の雑木林」「マイコレクションKOKESHI」「鳥の絵葉書」「蟻のお父さん」など、身近な自然を題材にした画文集が次々と。もちろん挿絵には、いも版を。


版元名は「シンジュサン工房」、レーベル名は「ツマキ文庫」。シンジュサンは山繭蛾の一種、ツマキは蝶の名前、いきものの好きな山室さんらしい命名です。
リタイアしてから、ますます世界は輝いて
山室さんはしみじみとしたエッセイを書かれますが、詩人や作家の作品に挿絵をつけたり、俳人の句集をまとめたりもします。
山室さん:
「言葉に画をつけたものを作るときには、言葉のリストを3つ4つ頭に入れて、思いついたら手を動かすことにしています。
これは重い言葉なので、深海に光が照らされている絵にしたんです。」

染織家の志村ふくみさんが若き日に創作した物語に挿絵をつけたり、志村さんの染めた糸の端を貼った手製本をこしらえたり。
山室さん:
「志村さんから、『残り糸が袋に詰まっているのがもったいなくて捨てられない』ときいて、それをいただいて、本にしたんです」

西荻窪のギャラリー「もりのこと」で展示をするときは、毎回、楽しいしかけがあります。
こけしをモチーフにした展覧会では、額装作品のほかに、目鼻を描いていない こけしを刷った絵はがきがたくさん。来場者はそこに目鼻を描いて絵付けをし、メッセージと宛名を書き込んで、会場に置いてあるポストに投函します。
詩人ルナールの「博物誌」をテーマにした展示では、冊子「わたしもルナールとあそんでみました」をつくりました。来場者がめいめい好きないきものについて短文を書き、山室さんがいも版画を彫って、画文集に仕立てて参加者全員に後日郵送してくれたのです。
来場者は大喜び。60人近くが参加して、山室さんは「うれしい悲鳴」をあげたそうです。アザミ、アシダカグモ、シマエナガ、ゴイサギ、ヤモリ、ユキノシタ、ダンゴムシ…

なかにはゴリラや深海のタコなど、山室さんが描いたことのないいきものもあったそう。
山室さん:
「インドガンも知りませんでした。ヒマラヤから山を越えてインドに渡るのだそうです。それから、『お母さん』と書いてくる人もいました。まったく予想のしないものが集まってくるのが面白かったですね」
版を彫るだけで午前中かかるし、翌日にはじゃがいもの水分が抜けて版が使えなくなるので、悠長にとりかかってもいられません。一冊にまとめ、製本までするのは大変な労力だったはずですが、「人に頼まれたら苦しいけど、自分で勝手にやっていることですからね」と笑っています。
山室さん:
「つくるのが苦しくていやだな、はダメ。こうやったらどうなるかな、と考えるのが楽しいんです」
仕事がつらくても、定年まで続けられたのは

山室さんを見ていると、ご自身がつくって楽しむことはもちろん、誰かが喜ぶ姿を見るのも楽しいのだろうと感じます。けれど、若い頃は人付き合いがとても苦手だったそう。
「好きなことをする時間がほしくて、定時に終わる仕事を選んだ」ということでしたが、実際には終電で帰ることなどもよくありました。さらに、「私はお酒が飲めない、麻雀も囲碁も将棋もできない。さらに車の運転もだめなんです」と山室さん。仕事がつらくて、なかなか会社に行かれない日もあったそうです。
それでも、家に帰ってものを作ると、ストレスが軽減されたといいます。じゃがいもを刻んで多色刷りをしたり、活字を拾って並べたり。好きな紙を束ねて製本したり。つらいときも、好きな世界で手を動かせば、目の前のことに没頭し、ちょっと嬉しい時間が生まれます。

退職後、仕事からは離れましたが、いも版画と本づくりは続いていき、ものづくりを縁とした知り合いが増えていきました。近くの喫茶店で展示をしたり、グループ展に誘われたり、いも版画教室をひらいたり。先ほどのルナールの冊子のように、知り合った人たちと一緒に本をつくったりもします。

まさか美術館で展覧会をする日がくるなんて

今年の5月には、鎌倉の美術館で展覧会が始まる予定です。鎌倉の自然といきものをテーマとした、「かまくら博物誌」。山室さんは「ピカソやマティスのような芸術ではなくて、いもの遊びを、美術館でお見せできるなんて」と恐縮しています。せめて来た人を喜ばせたいと、いろいろとアイデアをあたためている様子です。

山室さんの作品を通して、気がついたことがあります。たったひとつのじゃがいも、たった一片の紙にも、こんなにもワクワクする世界があるということ。
ごたいそうなものではないから、失敗したからって大きく落ち込むことはない。人に迷惑をかけるような大ごとでもありません。むしろ失敗をきっかけに、「次はどうしようかな」と考える楽しみができます。失敗だと思っていたことが、発見につながるときもあります。うまくできるようになったら、人と一緒に楽しむこともできます。つまり、なんでもない日が、じゃがいもひとつ、紙一枚でちょっと良い日になるのです。

たっぷりお話を伺った帰り、駅までの道を歩いていると、山室さんが自転車に乗って後を追いかけてきました。
「お渡ししようと思っていたものがあって。どうぞ」と渡されたのが、しゃれたパッケージのポテトチップス一袋。お礼を言うと、「たいしたことないんです、いもですから」。
最後の最後まで、くすっとなるような楽しみを用意してくださる山室さん。わたしたちは笑いながら足取り軽く、駅までの道を歩いていきました。

photo:長田朋子
山室眞二
1939年、横浜生まれ。シンジュサン工房主宰。横浜市立大学卒業後、建設省(現・国土交通省)などに勤務。薯版画の制作や装幀、造本をおこなう。「尾崎喜八詩画集」(私家本)、「美紗姫物語」(志村ふくみ・求龍堂)、「じゃがいもデ版画ーわたしの薯版画技法」(求龍堂)、朝日新聞「俳壇・歌壇」の薯版の挿画や画文など。神奈川県立近代美術館 鎌倉別館で、展覧会「山室眞二の薯版画 〈かまくら博物誌〉」を開催予定(5月30日~9月27日)。
感想を送る
