
じゃがいもひとつあれば、心が喜びに満たされる。そんな方法を知っている人がいます。版画家の 山室眞二 さん。初めてお会いしたのは20年以上前ですが、お会いするたびにどんどんきらきらと、若々しくなっていくのです。86歳の今年は、美術館での展覧会が予定されているそうです。山室さんが大切にしている世界をそっと見せていただきました。
なじみの野菜がアートになる。じゃがいも版画の世界

「いも版画」ときいて、どんな作品をイメージしますか。
山室さんが手掛けているのは、たとえばこんな作品です。
草花に野鳥、星空……切手サイズの紙片のなかで、ささやかな自然が息づいています。
これらはすべて、じゃがいもを使ったいも版画。台所の野菜かごをのぞけばたいていひとつふたつは入っている、あのじゃがいもです。
もう少し大きなカードサイズの作品や、文字を刷ったものも。


「文字を刷るときは、大きなじゃがいもを使うんです」と山室さん。
いも版画を挿絵に、手製本を作ることもあります。
紙に印刷して、束ねて、表紙をつけて…


笑顔のこの方が、作者の山室眞二さんです。北鎌倉に暮らす86歳。
好きなものは、草花、鳥、ちいさないきもの、身近な自然、活字、本、ちょっとしたユーモア、そしてじゃがいも版画。
山室さんと会うたびに、心があたたかくなります。

誰でもつくれて、面白い。じゃがいも版画のつくりかた

いも版の材料といえばさつまいもが一般的ですが、山室さんはじゃがいも派。さつまいもだと粘りがあって油絵のようなタッチになりますが、じゃがいもはさらりとしていて、絵の具が滲むこともなく繊細に仕上がります。それでいて、いもならではのしっとりとした柔らかさや温かみも感じられる。
「『いも版なんて子どものすること』なんて忘れ去っていてはもったいない版画です」と、山室さん。
版画を作るところを見せていただきました。
じゃがいもは、スーパーマーケットの野菜売り場で買ってきます。いもだけ買うのはちょっと恥ずかしいから、ほかのものも買い物かごに入れるそう。
下書きを、水性ペンでグラシン紙に写したら、じゃがいもの断面にぴたっとくっつけて転写します。

刃物はカッター。
山室さん:
「力をいれずに すーっと切れるでしょう。周りを削っていくと、じゃがいもはやわらかいですから、ポロポロと落ちていくんです。不要な部分は肥後守(ひごのかみ)で切り落として… 肥後守って、若い方はあまり使わないかしら。私が子どもの頃は、この刃物ひとつで、竹を割ったり木を削ったりして遊び道具を作ったんですよ」

版ができたら絵の具を混ぜます。
山室さん:
「原色は使いませんね。いつも、ねずみ色を少し混ぜて、にごらせるんです。自然の色はいろいろ混ざっているから、少しにごっていて、そのおかげでやわらかく見えるんです」


机の上に、愛らしい絵筆入れがありました。山室さんの手作りでしょうか?
「それは、娘が小学生のときに作ったものです」と、山室さんがにこっとしました。

さて、こうしてできあがった絵の具をいも版に塗って、ぺたん。
さあ、どうでしょう?

できた!
次々と、ぺたん、ぺたん、ぺたん、ぺたん… 20枚ぐらい刷ったら、その版はおしまい。
山室さん:
「じゃがいもは、時間がたつとかわいてしなびてきますから。でも、失敗したってまた作ればいいんです」
いったい、どんな版画ができあがるのでしょう。山室さんが、下絵を見せてくれました。

山室さん:
「これは、糸を持った人の肩の背景になるんです。これから版を重ねていくと、完成します」
好きなことを仕事にしないと決めたのは

じゃがいも版画には、いろんな形の版が重ねられて、一枚の絵ができあがる楽しさがあります。
しかも もとはといえば、どこにでもあるような じゃがいもでできているところが面白い。
これに似た楽しさを、山室さんは子どもの頃、お父さんの仕事に見ていたようです。

横浜生まれ、横須賀育ちの山室さん。子どもの頃から木版画が好きで、年賀状はいつも木版画で鎌倉や横浜の風景を彫っていたそうです。実家は洋服の仕立て屋でした。
山室さん:
「よく、一枚のきれから背広ができるのを、おやじの横で見ていました。不思議なんですよね。へんな形に切ったきれが、縫い合わせると背広になるんですから」
多色刷りのいも版画にも通じるワクワク感。
けれども、山室さんはものづくりを仕事にはしませんでした。手先は器用でしたが、「それで食べていけるとは思っていなかったし、自信もなくて」と、大学を卒業すると建設省に勤めます。役所勤めは残業が少なく、家に帰って趣味の版画にあてる時間がたっぷりあると思ったそうです。けれども実際には、そんなに甘くはありませんでした。家庭をもって、子どもも授かると、場所もとる木版制作はなかなか難しくなっていきました。

そんななか、40代になった山室さんは、たまたま香川軍男(かがわ・ときお)のいも版画絵葉書に出会います。香川は、北見市役所に勤めながらじゃがいもで版画をしていた人。
「いも版っていい味だな」と、山室さんは心惹かれたそうです。

山室さん:
「いも版は、木版にくらべると場所をとらないし、材料も手に入りやすいですから、気軽にできるなあ、と思ったんです。それで、始めました。誰かに教わるわけでなく、自分で手を動かしながら学んでいくわけですね。
実際にやってみると失敗の連続でね。でもいいんです、その失敗がまたひとつの技法につながっていきました。
失敗したって、いもですから、すぐ作れます。たまにいい版ができても、とっておけない。仕方ないですよ、いもですから。でも、惜しくはない。また作ればいいんですよ」
若い頃のものも、今作っているものも好き

いも版を始めると、モチーフは足元の草花や、小さな虫、鳥といったものに変わりました。「なぜなら、じゃがいもは木版にくらべて小さいでしょう。大きな風景などは彫れないんです」と、山室さん。
今暮らしている北鎌倉は、里山の自然が身近にあります。また、庭にも季節がめぐります。そうしたすべてが、じゃがいも版画の題材になっていきます。


気がつけばもう50年近く、じゃがいも版画を続けてきた山室さん。
これまで作ってきた版画を眺めながら、ふいに「うーん、昔のものより、今のほうが細かいですね」と言いました。10年前、20年前のものよりも、今作っているもののほうが、絵柄が細かく、色に深みがあるというのです。
山室さん:
「失敗を重ねて、工夫をしてきました。今は、同じ色でも二度刷りしているから、奥行きがあるんです。このところは、文字をたくさん彫ってます」
びっくりしてしまいました。

いま山室さんは86歳、視力だって集中力だって、10年前、20年前のほうが良かったでしょう。私だったら、「目が見えにくいな」「細かい作業が難しいな」と思ってしまいそうだし、「もっと若かったらなあ」と愚痴を言ってしまいそうです。
けれども山室さんは「うーん。目は老眼鏡と、拡大鏡も使えばいいし。それに幸い、まだ手が震えないので」と言います。山室さんのことだから、もしも手が震えたとしても、何か工夫をして新しい方法を見つけそうです。
山室さん:
「そりゃ、今作っているほうが細かいものができるに決まっています。つい のめり込んでしまいますので。
でも、20年ぐらい前につくったものも、まだ手が慣れていなくて、素朴な味が良いんですよね」
この前向きさは、どこからくるのでしょう。
度重なる病を乗り越えられたのは

山室さんは、30代から約10年おきに大きな病気をしてきました。数年前も2度目の心臓手術をしました。そのときの気持ちを伺うと「しょうがない、医者にまかせるしかないと思いました」と、さっぱりしています。
こうしたある種の達観は、もしかしたらちいさないきものをたくさん観察してきたからではないかな、と思いました。

絵の具を混ぜるとき、山室さんは「自然の色はいろいろ混じっているから、原色よりもにごっていて、そのおかげでやわらかく見える」と言っていました。
里山の自然も、多種多様ないきものが集まって成り立っています。かぎられた命のなかで、草も花も虫も鳥も、せいいっぱい生きています。どんな小さな存在も、キラッと輝く瞬間がある。そんないきものの姿をたくさん見てきたから、山室さんは、過去を振り返ってうらやましがることよりも、今できることに全力を注ぎ、楽しんでいるのかもしれません。

山室さんは、「まあ、そんなに大袈裟なことでもないのです。いもですから」と笑いました。
ところで、山室さんにはじゃがいも版画と並んでもうひとつ、楽しいライフワークがあります。それについては次回ご紹介したいと思います。

photo:長田朋子
山室眞二
1939年、横浜生まれ。シンジュサン工房主宰。横浜市立大学卒業後、建設省(現・国土交通省)などに勤務。薯版画の制作や装幀、造本をおこなう。「尾崎喜八詩画集」(私家本)、「美紗姫物語」(志村ふくみ・求龍堂)、「じゃがいもデ版画ーわたしの薯版画技法」(求龍堂)、朝日新聞「俳壇・歌壇」の薯版の挿画や画文など。神奈川県立近代美術館 鎌倉別館で、展覧会「山室眞二の薯版画 〈かまくら博物誌〉」を開催予定(5月30日~9月27日)。
: https://www.moma.pref.kanagawa.jp/annex/
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