【金曜エッセイ】大人の、しるし。(文筆家・大平一枝)
文筆家 大平一枝
第二十六話:大人の印
36歳まで、実印を持っていなかった。実印というものがあるのは知っていたが、自分にはほど遠い、きちんとした立派な大人が使うものだと思っていた。
ところが、マンション(正確にはコーポラティブハウス)を買うことになり、不動産コーディネーターから最初に「まず、実印を作ってください」と言われ、はたと困った。
実印って、どこでどうやって作るんだろう? どんな大きさで、どんな書体がいいか。それは印鑑屋さんが決めてくれるのだろうか? お代は、品質は……。次々、疑問が浮かぶ。
ホームセンターの隅で、くるくる回る四角いケースの三文判しか知らないので、そもそも印鑑屋さんの場所がわからない。
どきまぎしながら、夫が街の印鑑屋さんでオーダーした。ああ、これで私も一人前の大人だなあと、感慨深く思った。成人から16年の月日が流れてはいるけれども。
ところができ上がってきたのは、夫の印鑑は名字、私は「一枝」という名前だけであった。どうしてそうなったのかわからないが、ひどく悲しくなった。
今後、なにか人生を左右するような契約をする際、名前だけの実印とは、相手になめられてしまうのでないか。私はフルネームのはんこが欲しかった。
結局、マンション購入以外、そのような機会はなく、フルネームの実印がほしいと思い続けながらここまできてしまい、最近になって、やはり作ろうと思い立った。
そこでふと、かつて先輩ライターが「あそこで作ったら仕事が増える」と言っていたのを思い出した。なんでも、店主の鑑定がよく当たり、ここで作ると皆商売繁盛、家庭も幸せで、運が開けるという。
調べてみると、電話予約のみで受付、すぐに埋まってしまうらしい。さっそく電話をかけると、「予約はいっぱいです。だいたい当日分は10分か15分で埋まります」とのことだった。
その後もトライしたが、何十回かけてもとうとう電話はつながらなかった。
翌日以降はその時間に電話をかけられず、数日後に再トライしたがだめだった。
ツーツーという無情な音を聞きながら、思った。
───私は、素晴らしい鑑定士にみてもらって、どうしたいんだろう。そこまでして手に入れた開運はんこで、何を願いたいだろうか。
自分も家族も健康だ。仕事もなんとかとぎれずに26年間続いている。もっと仕事がほしいのか? いや、一つひとつを丁寧に、いい原稿を書きたいだけだ。
開運の力で望外にたくさんの仕事が来たら、年齢なりに集中力も体力も落ちている今の私にはきっとこなせず、雑になり、信頼をなくすに違いない。
お金も必要だが、そのために今の仕事をしているわけでもない。いい作品を、という私の願いは、運ではなく、努力と心がけでしかかなわない。
だんだん15分で予約が埋まるはんこ屋に、どうしても行ねばならない理由がわからなくなっていった。
お金もモノもたくさん持っていないし、あちこち体にガタは来ているが、なんとか生きている。それだけで相当素敵でありがたいことだ。
それに、田舎から出てひとり暮らしの長かった私は、元来ケチ癖がついていて、少ないお金でもけっこう愉快に生きていられる。だったら、もう電話をかけるのはよそうと思った。
そんな話を、アート関係の会社を営む友達にしたら、「私も同じことを思って、社印を文具店で作った」と言った。彼女は長く夫婦でアート関係の会社を続けている。はたから見ても、成功は才能と努力の賜物だとわかる。
欲深い私はまだまだ修行中で、今あるものに感謝し、満足することがなかなかできず、じりじりすることだらけだが、予約殺到の開運はんこ屋だけは早々と諦めた。みんなから人気があっても、自分に合わなければそれは必要ないと思えるようになったからだ。これが大人になったということだろうか。ちゃんとしたフルネームのはんこはまだないけれど。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。『天然生活』『dancyu』『幻冬舎PLUS』等に執筆。近著に『届かなかった手紙』(角川書店)、『男と女の台所』(平凡社)など。朝日新聞デジタル&Wで『東京の台所』連載中。プライベートでは長男(22歳)と長女(18歳)の母。
▼当店で連載中の大平一枝さんのエッセイが本になりました。
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