【連載|ひとはパンのみにて】最終回:私の人生を変えた、ある靴下のこと

【連載|ひとはパンのみにて】最終回:私の人生を変えた、ある靴下のこと

みなさんこんにちは。安達茉莉子と申します。自他ともに認めるお買い物好きの私ですが、このたび買い物にまつわるエッセイの連載が始まることになりました。私は買い物とは、「出合うこと」だと思っています。みなさんの日々に、良き出合いがありますように。

安達 茉莉子



最終回 私の人生を変えた、ある靴下のこと



 まだ勤め仕事をしていた頃のことだ。海外出張に出ていたターミナル空港で、乗り換えの飛行機を待っていた。案内板には、世界のあらゆる都市と空港名が表示されている。イギリスのヒースロー空港に向かう便が目に留まった。私のチケットは、成田空港行き。今、違うチケットを買って、ヒースローに向かう飛行機に飛び乗ったらどうなるだろう?

 —— なんて、空想はしても、実行はしない。仕事はやりがいがあって、人間関係にも恵まれていた。だけど、本当にそこは、自分が心からいたい世界だろうか? 答えは出ていたけれど、見て見ぬふりをしていたように思う。

 今回、この連載もついに最終回になってしまった。最後なので、というか、最後はこの話を書こうと最初から考えていた。個人的な話になるけれど ——とは言ってもいつも個人的な話しかしていないけれど—— 迷いを抱えながら生きていた頃に買った、ある靴下の話をしようと思う。

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 人生で二度、空港への電車乗り換えを間違えたことがある。どちらも今から約10年前。親友のようだった祖母が亡くなった時のことだった。

 夕方、まだ職場にいる時に家族から連絡があった。どんなに急いでも、九州に向かう最終便には間に合わない。翌朝の一番早い便を予約し、空港に向かった。冷静なつもりだった。

 だけど、当時住んでいた中野の自宅から成田空港に向かっているとき、ふと「泉岳寺」という駅名が見えた。あれ? それは、羽田空港に行くときに通過する駅では……間違えた! 乗り換えに失敗して、真逆の方向に向かっていたのだ。

 もう間に合わない。呆然としたまま便を予約し直して電車に乗り、そしてまた乗り換えを間違えた。

 今、私は一体どこにいるんだ? なぜたどり着かない? 本当に動転していたのだろう。自分の頭ではないみたいだった。大きなショックを受けているとき、自分ではそう自覚できないのだと初めて知った。

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 祖母は明るく陽気な性格で、活動的で、日々の小さなことを喜び楽しむ人だった。一緒にいるとずっと二人で話していられた。入院し、喉に挿管して話すことができなくなってからも、東京から九州に帰っては筆談で会話をした。痩せて小さくなっていく祖母の姿に、少しずつ心の準備をするような数年だったが、ついにその時が来た。

 結局羽田発のチケットを買って、ようやくたどり着いた羽田空港。疲れ切って、もう何も考えられなかった。出発カウンターに向かう時に、ロビーに面したお土産売り場に、ふとカラフルな靴下が目に留まった。「HAPPY SOCKS」とある。スウェーデンのブランドだった。水色、黄色、ピンク、水玉、しましま、そんなのがごっちゃになった、ポップな靴下。

 手に取った。カバンには喪服、そして黒いストッキングが入っている。これから向かう、お葬式の、死の、真反対にあるような、陽気で明るい色合い。

 それにしても、絶対自分では買わないような派手な靴下だなあ。なぜだか笑えてきた。そして、本当になぜか、こう思った。

 —— こんな靴下を、履く人生にしよう。

 ストッキングではなくて、パンプスでもなくて。こんな靴下で、スニーカーで、自分の仕事をして生きている人になろう。

 結局靴下を2足購入し、実家に帰り、祖母との最後の別れをした。祖母は、葬式らしくない色とりどりの花に囲まれていた。遺影は、弾けるような笑顔。私たちが皆、一番見慣れていた表情だった。

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 その翌年、私は退職して、作家として活動を始めた。

 あの時、電車を乗り間違えていなかったら、今みたいなことをやっていただろうか? わからないけれど、あの時はまるで、あらゆる時空に繋がってごちゃ混ぜになった、行き先が無限に選べる人生のターミナル空港みたいだった。

 本当に行きたい場所はどこ? 本当はどうしていたい?

 あの派手な靴下が目に留まり、手を伸ばしたとき、無意識に選んでいた。

 自由に、自分の足で立って、自分を表現して、遊び心をもって楽しく生きていく、そんな日々を。

 その後、靴下だけは好きなものを買っていいというマイルール……というか規制緩和が行われた。

 いや、「だけは」というのは嘘だ。

 食べ物、本、花、服、コスメ……どんどん規制は緩和され続けていて、今は、自分が良いと思ったなら、出合ったならば、好きなものを買っていいというマイルールになった。

 地上の喜びはどこにでもある。どんなに小さなものであったとしても、あなたの心に触れたものに手を伸ばすとき、その指先は、より幸せな方に、選びたい世界そのものに繋がっている。

 何気なく、時に大胆な、よき出合いが日々に無数にあることを願って、筆を置こうと思う。これまで読んでくださって、ありがとうございました。





東京外国語大学英語専攻卒業、防衛省勤務、篠山の限界集落での生活、イギリスの大学院留学などを経て、言葉と絵を用いた作品の制作・発表を始める。『私の生活改善運動 THIS IS MY LIFE』(三輪舎)、『毛布 – あなたをくるんでくれるもの』(玄光社)、『世界に放りこまれた』(ignition gallery)、『らせんの日々 ― 作家、福祉に出会う』(ぼくみん出版会)などの著書がある。2025年10月に新刊『とりあえず話そう、お悩み相談の森 解決しようとしないで対話をひらく』(エムディエヌコーポレーション)を出版。


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編集部より>>安達茉莉子さんのお買い物にまつわる連載「ひとはパンのみにて」は、今回が最終回です。1年間ご愛読いただき、たくさんのご感想もお寄せいただき、ありがとうございました。


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