【金曜エッセイ】エレガントな注意の仕方(文筆家・大平一枝)
文筆家 大平一枝
第二十七話:エレガントな進言
ホテルのラウンジなどでインタビュー取材をするとき、しばしばある女優さんとの苦い思い出が蘇る。
それは、編集プロダクションからライターとして独立して間もない頃のことだ。
エレガントな佇まいとベテランの演技派で知られるその人と、老舗のホテルで待ち合わせをした。ずいぶん早く着いた私はコーヒーを飲み、資料に目を通す。
30分後、彼女はマネージャーなしに現れた。噂には聞いていたが、本当にひとりなのかと、私は背後を探す。すると、慣れている様子で教えてくれた。
「マネージャーは来ないんです、いつも」
「お芝居の現場もそうですか?」
「だいたい、ひとりね。私、どこでもひとりで行っちゃうんです。そのほうが身軽だから」
ひょうひょうと気取りのない笑顔で語り、椅子に座る。私は緊張をほぐすために最後のコーヒーをごくりと飲み干し、彼女にオーダーを聞いた。
「お紅茶を」
私はコーヒーをもう1杯頼む。
やがて取材が始まった。ひとつひとつ、じっくり考えながら答える。丁寧な人だと思った。いくらでも勘違いしやすい環境の中で、ブレずに自分を持ち、なんにでも丁寧に取り組む人は、じつは自分にも他人にも厳しい。彼女はどうだろうかと、内心ドキドキしていた
と、ウエイターが紅茶を持ってくる。
彼女はポットで葉が開くのを待ち、カップへ注ぐと背を伸ばし、私のほうに向き直り、静かに言った。
「お先にいただきます」
はっとした。
私は1杯目を、先になんのことわりもなく飲んでいた。早く着いたのだしいいだろうと、さして意識もしていなかった。だが、飲み物が来ていない人の前で飲むなら、「お先に」の一言はマナーとして必要だったはずだ。
人生のはるか先輩であるその人は、私に「こうするものですよ」と傷つけないやり方で、そっと教えてくれたのではないか。その直感は、まちがっていないだろうと今でも思っている。
教科書には載っていないお付き合いの小さな流儀。やむをえず先に自分が行動をするときは、「お先に」と声を掛ける。その先に「失礼します。無礼をお許しくださいね」の言葉が含まれている。
誰かと待ち合わせたり、取材で早く着いたとき、彼女の凛としたまなざしとともに、未熟だったあの日の記憶がしばしば蘇る。真のエレガントは、他人への気遣いもできる人のことを指すと学んだ日。同時に、忠告や戒めは、できるだけそっと、相手に恥をかかさぬ方法で伝えること。
今は画面であまりお見かけしないが、元気だろうか。いつか再びお会いできたら、あのときのお詫びとお礼を言いたい。教えてくださってありがとうございました。そしてできれば先に到着し、こう言いたいのだ。「お先にいただいております」。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。『天然生活』『dancyu』『幻冬舎PLUS』等に執筆。近著に『届かなかった手紙』(角川書店)、『男と女の台所』(平凡社)など。朝日新聞デジタル&Wで『東京の台所』連載中。プライベートでは長男(22歳)と長女(18歳)の母。
▼当店で連載中の大平一枝さんのエッセイが本になりました。
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