【スタッフコラム】故郷なんてないと思っていた私へ
編集スタッフ 齋藤
目を覚まして顔をあげた瞬間、窓の外に海がひろがっていると思いました。
けれどそれは海ではなくて真っ青な空。そう気づいたのはとろりとした眠気の余韻が消えさった、数秒後のことでした。
池袋駅から西武池袋線の急行電車で30分あまり。発車直後にうつらうつらしていた私はいつの間にか眠ってしまったようで、起きた際に寝ぼけまなこで見た車窓からの風景を、海だと勘違いしたのでした。東京をはなれたためにビル群は消え、あたりはいつの間にか低層の住宅ばかり。窓の奥にはただただどこまでもつづいてゆく、空の青さだけがありました。最初は頭が追いつかなかったけれど、そういえば見覚えのある光景。記憶が呼び覚まされた瞬間に、急に懐かしさで胸がいっぱいになって、体の奥がやわらかな熱を発しました。
この日、私は埼玉にある親戚のおじさんの家に向かっていました。毎年GWはこのおじさんの家に親戚で集まってから、早朝にみんなで車に乗り込み、彼らの故郷である新潟の松代(まつだい)というところに行くのが決まりごと。
この行事、幼い頃は「旅行に行ける!」と心待ちにしていました。けれど中学生、高校生と、いわゆる思春期になるにつれて気持ちがどんどんと遠のいてしまい、やがて行かなくなったのです。親戚同士で集まるのなんてなんだか地味だしつまらない。それよりも一人で気ままに過ごしたい。いつしか大人同士の間延びした会話がもたらす退屈さにイライラし、年上に囲まれあれやこれやと過保護にされるのも疎ましくて仕様がないようになっていました。
他にもいろいろな理由をつけては行くのを断りつづけて幾年か。ところが今になってふと、また彼らと新潟へ行きたくなったです。
行ってみると、幼い頃とは違う感慨がありました。
私が生まれ育ったのは、東京の西側。いわゆるニュータウンと呼ばれている場所です。幼い頃に遊んでいた山や空き地にはいつの間にか家やマンションが建ち並び、数十年の間に景色は次々と変わってゆきました。
楽しい思い出もたくさんありますし、住み良い場所なのでステキに暮らしている人もたくさんいるのだろうと思います。けれど私は、ずっと満たされなかった。
あまりの変化の早さに、何に心を留めて良いのかわからなかった私は、始終戸惑っていたように思います。そして感じたのは、どこにも根を張れない実感がもたらす、心細さでした。
あぁ、何もかもがこんなにも目まぐるしく変わってしまって。
だから実家はあるけれど、あの「兎追ひし かの山」のような故郷というものを、私は手に入れることができなかったんだなぁというのが、さびしい心の動きの末にぽつりと感じたことでした。
けれど久しぶりに新潟に行ってみると、このさびしい想いがゆっくりとなくなっていくような気がしたのです。
山々に囲まれた5月の松代はどこもかしこも緑で眩しく、その生命力たるや。なぜこんなにも彩りに満ち、全身全霊で騒がしいほどに命を謳歌している動植物の存在を、10代の私はつまらないなんて思ったのだろう。それが不思議でしょうがないほど、私にはこの土地のあらゆるものが真に迫ってきました。
あの山もこの山も、道も、草花も、色も、すべて。思い出の中の景色と、ずっと変わらない姿でまた私の前にある。
そのただただ、また同じように存在してくれていたことが、今ではこんなにもありがたい。そう思えてしょうがなかったのです。
透明な空気の中をまっすぐに降ってくる太陽の光。
やわらかにどこまでも伸びるブナの青さ。
コロコロと鳴くカエルの声。
地域の人が植えたのであろう、童謡のような赤や黄色のチューリップ。
行きたい場所があれば、すぐにでも車を出してくれる相変わらずマメで過保護な私のおじさん。
たくさんの思い出と今がゆるやかに織り成す感情は、懐かしさでも嬉しさでも切なさでもなく、確かに自分はこの地やこの人たちと生きてきたのだという命そのものの実感でした。
暮れの頃、まばゆい西陽に照らされた棚田を見下ろしながら、私はおじさんと二人で車に乗っていました。窓を全開にして風をあび、遠くの山並みを見ていた私の横で、「この季節のブナは、毎日色が変わるんだよなぁ」とおじさんがぽつり。そういえば、私は今まで自分がどう感じるかばかりで、この地に生きてきたおじさんがどういう風に山を見ているのかまったく知らなかったのです。私にはどのブナも、同じにしか見えていませんでした。
星の数ほどありそうな緑の色の違いを、見分けられる日はくるのでしょうか。そんな小さな問いを携えながら、会わない間にすっかり白髪頭になったおじさんの横で、私はブナの色のあわいを、深く胸に刻みつけたのでした。
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