【金曜エッセイ】母を卒業する、ということ

文筆家 大平一枝


第四十二話:石鹸が溶ける前に


 

 棒付きアイスの形をした、クリーム色の石鹸をタイで買った。
 2年前の3月、予定をなんとかすり合わせて家族4人で行った旅先でのこと。
 売り場は甘いココナツの香りがたちこめていて、これを我が家の洗面所においたら、家族でタイのことを毎日思いだせるよなと、意気揚々と買った。

 その年は、長男の大学、長女の高校卒業が重なった。フリーライターと映画スタッフというなんの保証もない不安定な自営の夫婦で、よその親御さんたちみたいにボーナスも福利厚生もない。だが休みだけは自由に取れるぞと、子どもたちが部活で忙しくなるまで、毎年続けてきた少し長めの家族旅行の、これがラストだった。

 いい年をして、親と海外旅行もないだろう。大学の部活の卒業旅行だの、ガールフレンドとの旅行だの、息子の予定はパッツパツ。
 それでもなんとかゴリ押しして日程を空けさせたが、旅の道中は喧嘩のしっぱなしだった。

 そのイライラには私も覚えがある。
 親のやることなすこと、すべてがうっとおしいのだ。
 おまけに、息子は留学して、少々英語ができるのをいいことに、「わかりもしないのに勝手にイエスと言わないで」と、偉そうに言う。
 気の短い私は、そのたびに爆発する。
「だれのおかげで大学行けたと思ってるの」
「留学の費用は誰が出したのよ」

 えげつないやりとりに、夫と妹はげんなりしている。
 ああだこうだ、いろいろあった末、土産用にカラフルで美味しそうな色をしたアイスバー型の石鹸をまとめ買い。そのうち1本を自宅用にした。

「ちかぢか入籍するわ」
 3ヶ月ほど前、ガールフレンドの家に入り浸りの息子が、ワイシャツをとりに久々に帰宅した折、ぽつりと言った。
 大学卒業後まもない宣言に、とまどいもあったが彼の人生だ。うん、いいんじゃない。精一杯、平気な顔で答えた。
「はやすぎるかな」
「いいと思うよ。海外赴任の前に家族がいたほうが心強いじゃん」
 やっぱりいつもの顔で。

 ついこの間まで弁当を作って送り出していたような気がするが、卒母とはこうも突然くるものかと、事実を受け入れるのに時間がかかった。

 そして先週。使っていた石鹸が終わったので、タイの土産を取り出した。狭い洗面所いっぱいに懐かしい南国の香りがたちこめた。
 これを買う時、まさか息子が所帯を持つなんて思いもしなかった。もう少し、シャツを洗ったり、夕ごはんはいるのかと聞いたり、部屋を片付けろと小言を並べる生活が続くと思っていた。
 思い出の石鹸ひとつも、使うことなく君は出ていくのか。
 私は、親という営みのはかなさをしみじみと思った。自分の親もこんな気持だったのだろうか。だとしたら、あのときもっと甘えたり、「ありがとう」をいえばよかった。

 子どもが小さい頃、無限くらいに思っていた時間は、確実にサラサラとこぼれおちてゆく。一期一会というのは他人のためにある言葉だと思ったが、家族というとんでもなく身近な間柄にもあてはまる。
 たまたまこの家に生まれてきたけれど、これは一瞬の止まり木。石鹸が溶ける前に、子どもなど巣立ってしまう。

「もっとあの子の部屋が広かったら、もうちょっとこの家にいてくれたかな」
 私の独り言に夫が「どんな広くて快適でも、出ていくさ。子どもなんてそんなもんさ」。

 私は突然父の日を思い出して、インターネットでポロシャツを注文した。田舎に暮らす実家の父宛に。ありがとうが、間に合ってよかった。

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文筆家 大平一枝

長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。『天然生活』『dancyu』『幻冬舎PLUS』等に執筆。近著に『届かなかった手紙』(角川書店)、『男と女の台所』(平凡社)など。朝日新聞デジタル&Wで『東京の台所』連載中。一男(23歳)一女(19歳)の母。

大平さんのHP「暮らしの柄」
https://kurashi-no-gara.com

▼本連載の過去記事はこちら

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