【金曜エッセイ】彼女が20年余り勤めた仕事を辞めたあと
文筆家 大平一枝
第五十八話:ハンコを押せない人の話
底抜けに朗らかで腕の優れた編集者の女性がいた。20年余、この仕事をやりきったとのことで月刊誌編集の世界から足を洗った。
今は、フリーランスとして日本酒や料理、日本文化にまつわる仕事であいかわらず忙しく飛び回っている。
先日、2年ぶりに彼女とお酒を飲んだ。
じつは、退職後手伝った別の業界の仕事は1年続かなかったと、意外な告白を聞いた。いつ寝ているんだろうというようなハードな編集者時代、つねにパワフルで粘り強く取り組む姿勢を知っていたので、腑に落ちない。
「なんで?」と、思わず身を乗り出す。
「ある資格を取得した人へ合格の賞状を渡す業務があってね、私が大きなハンコを押さなきゃいけなかったの。でも、これがお家のどんなところに飾られ、どれほど大事にされるか、そういう部屋を取材でいっぱい見てきたから、想像したら手が震えちゃって、全然押せなくて」
個室にひとりハンコと朱肉を持たされ、免状を前にすると、ハアハアと呼吸が浅くなり、指が震え始めるのだという。
「すみません。押せません」と若いスタッフに訴えたが、役職上どうしても彼女でなければいけなかったらしい。
「◯◯さん、深呼吸しましょうと言われ若い子とスーハースーハーするんだけど、よしオッケーと思うと、また震えが始まるのよ」
もちろん退職の理由はそれだけではないだろうが、なんだかあまりにも想像がつきすぎて、涙を流しながら大笑いしてしまった。
「計算もできないし、事務的な文書も間違いだらけ。まがりなりにも副編集長もやったのに、ハンコ一つまともに押せないって、わたし何やってきたんだろうって思ったら情けなくなっちゃってさ」
「それでやめたの?」
「うん」
たしかにたかが賞状一枚。だが、インテリアや暮らしの取材でさまざまな家を訪ねてきた私にも覚えがある。資格取得の免状や長年勤め上げた会社からの表彰状が、取材先の床の間の一番いいところに、額に入れて飾られていた。家族の誇りであり、宝であることがよくわかった。
私だって、大きなハンコを持たされて見たこともないような分厚い朱肉を前にしたら、ぶるぶる震えだすかもしれない。
飾られる光景を知っていることと、いかに大事なものか、どれだけの努力の結晶か、想像力がゆたかなこと。このふたつが、彼女の任務を全うさせなかったのだ。
編集者として20年間、たくさんの人生を見てきた彼女だからこその失敗談に、もうしわけないがなんだか心が温まった。
今は好きな料理を中心に据えた仕事で、毎日が楽しそう。頬がつやつや、えびす顔だった。
それにしても、一生懸命取り組んだからこそできなくなることってあるんだなあ。今度の仕事は、押印がなくてよかったネ。
文筆家 大平一枝
作家、エッセイスト。長野県生まれ。編集プロダクションを経て1995年独立。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)ほか。『東京の台所』(朝日新聞デジタル&w),『そこに定食屋があるかぎり。』(ケイクス)連載中。一男(24歳)一女(20歳)の母。
大平さんのHP「暮らしの柄」
https://kurashi-no-gara.com
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