【金曜エッセイ】仕事で忙しいのに、どうやって趣味の時間を?
文筆家 大平一枝
パソコンに向かうときの姿勢が良くないらしく、首や腕に不調があるので鍼治療を続けている。あちこちに通院し、ようやく相性のいい鍼灸師さんと出会って1年。
20代の彼は物静かな学究肌。腕は確かで療術の話になると的確な助言が続くが、世間話を自分からどんどん話しかけていくタイプではない。
ところが何度か通ううち、彼には大変な特技があるとわかった。今上映している映画にとびきり詳しいのだ。それもほとんど話題に取り上げられていないような単館ロードショーの外国作品に明るい。
いつからか「今何が面白い?」と聞くのが習慣になった。薦められて足を運んだものもある。
なぜそんなにマイナーな映画にも詳しいのか尋ねると、彼は照れくさそうに答えた。
「僕は口下手で、誰とでもおしゃべりできるようなタイプではないので。学校を卒業して鍼灸マッサージ師になれたとき、この仕事を一生続けるにあたり、自分の武器はなんだろうと考えました。ところがなにもない。これではいけないと思い、そうだ映画を観ようと。でも何から観たらいいのか? とりあえずよくわからないけど映画といえばカンヌなので、カンヌ映画祭の各賞受賞作を全部見ようと決めたんです。映画の話なら、どんな世代のお客様ともお話ができるでしょう?」
映画に詳しい人は多い。しかしカンヌ国際映画祭の各賞となると、どうだろう。パルム・ドールやグランプリは人気はあっても、監督賞、審査員賞、男優賞、女優賞、脚本賞となると……。おまけに「ある視点部門」にも作品賞、監督賞など各賞がある。さらには「短編部門」も。
日本で上映されているものはすべてできるだけ見逃さないようにしているという。彼を見る限り朝10時から夜遅くまで鍼灸治療院で働いている。上映期間は限られているので、休日だけでは観きれないはずだ。いったいいつ?
「出勤前のモーニング上映によく行きます。翌日が休みの日は、レイトショーへ」
最初は客との話題作りのためにと見始めたら、「すっかり映画の世界にハマっちゃいました」とのこと。
今はカンヌに限らず、好きな監督や脚本家で作品を選んだり、日本のドキュメンタリーやミニシアターだけでしか上映しない作品もチェックしたりしているらしい。
そんな生活がまる3年。先日、こうつぶやいた。
「僕は映画以上に、映画館という場所が好きなんだなあと気づきました」
彼の推す映画館で私が大好きなところがいくつかあり、たしかにいつしか小屋談議になっていることが多い。居心地のいい映画館に求める条件から、帰りに立ち寄るビル併設のおいしい店情報まで。
そんなこともあり自宅でのデジタル配信はまったく視聴しないとのことで、世代的には珍しく感じられた。
20代で、仕事前に寄るほど好きなものに出会えてよかったなと老婆心ながら思った。社会に出て間もない頃は、趣味は二の次になりがちだ。そういう人生の季節があっていいと思うが、彼の場合は仕事の武器にもなっている。心や感性をゆたかにしてくれる。そして、この時代に映画館で観る映画の良さを体感で知っていることはかけがえがない。
先日も、教えてもらったイランのSNSをテーマにした作品を観た。SNSで小さな嘘をついてしまった男の意外な結末を描いた物語だ。最高に面白くて、彼に聞いていなかったら絶対観ていなかったなと感謝した。同時に、自分が少し恥ずかしくもなった。
私は仕事柄、本や映画に多少詳しいつもりでいる。初対面の人とも話すのも苦ではない。いっぽう彼は、それほど誰とでもべらべら話せないという自分のコンプレックスを起点に、私などよりはるかに深く広く、映画の知識を身につけている。3年前のスタート地点では年齢的に私のほうが映画に詳しかったと思うが、とっくに追い越され、彼のほうがたくさんのスクリーンの中の人生を知っている。──私はこの3年で何を得ただろうか。
弱点は、その人の意識の持ち方次第で、ときにとんでもないエネルギーを生み出す。
映画の話になると止まらない鍼灸師さんに施術してもらいながら、謙虚がもたらす効用をいつもしみじみと実感する。そして、毎回ひどく清々しい気持ちで院をあとにする。あれは、体とともに心もフレッシュな空気に満たされるからだろうな。
長野県生まれ。編集プロダクションを経て1995年独立。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)ほか。最新刊は『ただしい暮らし、なんてなかった。』(平凡社)。一男(26歳)一女(22歳)の母。
大平さんのHP「暮らしの柄」
https://kurashi-no-gara.com
photo:安部まゆみ
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