【連載|生活と読書】第五回:韓国の旅
昨年のクリスマスに、韓国を旅してきました。
いちばんの目的はリトルプレス専門書店「セゴ書林」の店主であり、日本文学に造詣が深いチェ・スミンさんに会いに行くことでしたが、「セゴ書林」以外の書店や、飲食店を訪ねることも同じくらい楽しみにしていました。なんていったって、初めての韓国だったので。
若いころはよく旅をしました。一年に一度くらい、ああ旅がしたい、とむずむずしてきて、それでその日の午後の電車で家を飛び出すようなこともありました。
いちばん長い旅は、ヨーロッパとアフリカを50日ほどでまわった、25歳のときの旅です。ぼくが回ったのは、モロッコ、セナガル、ガーナといった当時は比較的治安のいい国ばかりだったのですが、それでも「ぼくはこのまま一生日本に戻ることはできないのではないか?」というトラブルに何度か遭い、それ以来、長期旅行にはあまり興味がなくなってしまいました。
ふたたび、旅をしたくなってきたのは、ふたりの子どもたちが小学生になったつい最近のことで、とくに中国や韓国といった近隣諸国に行ってみたいという思いが強くなってきました。
若いころは、遠い、まだ見ぬ世界にあこがれ、50歳も近くなると、同じアジアの国を訪ねることで、日本との違いを知り、そのことによって、より深く、自国のこと、そして自分のことを知りたくなったのかもしれません。
初めて訪ねたソウルは東京によく似ていました。店に一歩足を踏み入ると「いらっしゃいませ」と声をかけてくれるたくさんのチェーン店や、整備された交通網。地下鉄とバスをつかえば、ソウルのあらゆるところに安価な料金で行くことができます。
ただ一点、地下鉄の座席があまりに硬いことが気になったので、チェ・スミンさんにどうしてなんですか? と尋ねました。
すると、彼女は2003年に起きた「大邱地下鉄放火事件」のことを教えてくれました。男性が地下鉄社内にガソリンを撒いて放火し、192人のひとびとが亡くなった、今なお韓国のひとたちの心に大きな傷を残す事件です。それ以来、地下鉄の車両の内装やシートなどには不燃物が採用されることになりました。
こうしたひとつひとつの出来事、事件が国の文化をつくるのだと思います。
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ぼくが旅のなかでもっとも好きな時間は、旅立つとき、そして帰って来るときです。それはつまり、空港のなかの時間で、大きな荷物をもったさまざまな国籍の人たちがいて、彼らの耳に届くよう、さまざまな言語でフライトのアナウンスが流れているのを聞いていると、気持ちが高揚してきます。
帰国するときの気持ちは、出国のときとまるで違います。成田空港で働いているひとたちの佇まい、服装、表情で、ああ、ここは間違いなく日本なのだ、と思います。日本語が耳に入ってくるよりも先に、ひとびとが醸し出す雰囲気で、ぼくは自分が母国に、そして日常に帰ってきたことを理解するのです。
その、旅の世界にピリオドが打たれる瞬間もまた、ぼくにとっては旅の醍醐味です。
すべての旅には当たり前ですが、はじまりと終わりがあります。楽しければ楽しいほど、旅の残りの日数が気になるのであり、旅が終わった瞬間に、家族や友人たちと「たのしかったね」と思い出を語り合ったり、スマートフォンのなかにあるたくさんの写真に見入ったりします(むかしは、帰ってきたらすぐにカメラ屋さんに行き、フィルムの現像をお願いしに行きました)。
こうした、はじまりと終わりのある世界は、私たちの日常とは正反対です。
私たちの日々の生活には終わりがないのであり、だからこそ、ときに不安になったり、どうしたらいいのかがまるでわからなくなったりします。
子どもたちの世界にはいくつもの卒業という明確な終わりがあります。小学校時代の6年間、中学校時代の3年間、高校時代の3年間、大学時代の4年間、どの時代がいちばんたのしかったかは人それぞれだと思いますが、これらの時代は終わりがあるからこそ、ひときわ輝かしく、なつかしく感じられるように思います。
一方、社会人になるときにあれだけ不安になるのは、そこには学生時代のようなはっきりとしたゴールがないからです。
毎日続く日常のなかで、ぼくがしきりに本を読むのは、そこに明確なはじまりがあり、終わりがあるからです。
本はときに人生そのものをモチーフとしており、ぼくの人生もこんな感じなのだろうか? と作家の文章を読みながら、これまでのこと、そしてこれからのことをぼんやりと考えています。
『少年が来る (新しい韓国の文学 15) 』
ハン・ガン 著, 井手 俊作 訳 CUON
「ひとつひとつの出来事、事件が国の文化をつくるのだ」と書きましたが、もっといえば、その出来事、事件をどのように語るかによって、大げさに言えば、その国の未来が決まるように思います。作家や詩人が重要な存在になるのは、そのようなときです。ハン・ガンの『少年が来る』は韓国の光州事件を扱った、すばらしい小説です。
文/島田潤一郎
1976年、高知県生まれ。東京育ち。日本大学商学部会計学科卒業。アルバイトや派遣社員をしながら小説家を目指していたが、2009年に出版社「夏葉社」をひとりで設立。著書に『あしたから出版社』(ちくま文庫)、『古くてあたらしい仕事』(新潮文庫)、『父と子の絆』(アルテスパブリッシング)、『電車のなかで本を読む』(青春出版社)、『長い読書』(みすず書房)など
https://natsuhasha.com
写真/鍵岡龍門
2006年よりフリーフォトグラファー活動を開始。印象に寄り添うような写真を得意とし、雑誌や広告をはじめ、多数の媒体で活躍。場所とひと、物とひとを主題として撮影をする。
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