【金曜エッセイ】前髪を4センチ切って(文筆家・大平一枝)
文筆家 大平一枝
第十六話:前髪を4センチ切って見えた世界
長年通っている美容室を替えるのは、勇気がいることだ。私は3年前、下の娘が高校生になった年に替えた。じつに15年ぶりであった。
なにか不満があったのではなく、たまたま仕事仲間の噂話に興味を持ったのがきっかけである。
本棚の選書がいいという話であった。腕もよく、少々風変わりな切り方をするらしい。
美容室なのに本棚が充実しているというところが、気になった。
行こうか、行くまいか。15年も同じ店に通っていた私は、自分でも驚くほど迷った。
しかし、振り返ればいつも同じメイクに、同じヘアスタイルである。長い間、自分にかまったり、身ぎれいにすることがあとまわしになっていた。仕事と子育てにいっぱいいっぱいでそれどころではなかったのが正直なところだ。
年齢も肌の様子も好みも変わっていくのに、メイクとヘアスタイルがずっと同じというのは寂しい。おしゃれをもっと楽しみたいと、素直に思った。そして、決めたのだ。──よし、行ってみよう。
その店は、白い小さな一軒家で、窓から明るい光が差し込んでいた。たしか月曜の昼下がりだった。当日の急な予約にもかかわらず、オーナーに穏やかな笑顔で出迎えられた。
「今日はどんなふうに」
「えっと、おまかせします」
「いいんですか?」
「はい。ちょっと、自分を変えてみたいんで」
「わかりました。では、ここに立ってみてください」
等身大の鏡の前に立つと、やおら彼は前髪を眉毛の4センチ上くらいをぱっつんと切った。そこを一直線に切るのは高校以来だろうか。店に入って数分後のできごとに、たじろぐ。
彼は、「バストアップの半身鏡の前で切ると、全体のバランスがわからない。人によって体型も雰囲気も違う。髪は、絵のように全身のバランスを見ながら切るべきだ」と語った。そのため時折、店に画家を招き、美容師全員でデッサンを学んでいるらしい。
なるほど、噂通り、ちょっと変わった美容室だ。
椅子に座ってカットとブローをすべて終えたあと、彼は言った。
「絶対この前髪の方がいいです。大平さんの意志が全面に出る感じ。きっとメイクも洋服も変わりますよ、これから」
以来3年、通っているのは前述の通りだ。
予言通り、まずメイクが変わった。ぱっつんの前髪に負けないよう、目にポイントを置くようになり、そのバランスで、チークや口紅は柔らかめの色合いに。メイクアイテムをひとつずつ替えていった。
「雰囲気が変わりましたね」という周囲の反応に気を良くして、ファッションにも興味が湧く。あらためてクローゼットを見直すと、愛用のブランドが自分には似合わなくなっていた。選ぶ服が変わり、バッグや靴が変わり、アクセサリーも冒険するようになる。
今は、いろんなことにチャレンジすることが楽しい。赤いワンピースも、真っ青のパンプスも、少し前の私なら選んでいないアイテムだ。
脇目も振らず全速力で人生のトラックを走ってきた自分の頭を、「よしよし」と自分で撫でてあげるような。家族や仕事のために、がんばってきた。でも、これからはもう少し自分自身にかまってあげよう。そんな感覚が芽生えた。
いくつになってもおしゃれは冒険するほうが楽しいし、自分を変えることに臆病にならないほうが、人生はずっとおもしろい。10代の頃はわかっていたのに、いつしか忘れていた。気づくのに間に合ってよかったと、ちょっぴりほっとしている。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。『天然生活』『dancyu』等に執筆。近著に『届かなかった手紙』(角川書店)など。朝日新聞デジタル&Wで『東京の台所』連載中。プライベートでは長男(22歳)と長女(18歳)の母。
▼大平さんの週末エッセイvol.1
「新米母は各駅停車で、だんだん本物の母になっていく。」
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