【金曜エッセイ】わかめの天ぷらの思い出
文筆家 大平一枝
第三十三話:わかめの天ぷらの思い出
ひとり暮らし7年を経て結婚をした。長く料理をしてきたはずなのに、新婚時代の私はひどいありさまであった。
今のように料理サイトも携帯電話もなく、何を作るにも料理本が頼り。平日は仕事で余裕がなく、適当な想像と目分量で料理をする。土日は、昼近くにのっそり起き上がり、料理本をパラパラめくる。旬のものを食べるとか、冷蔵庫にあるもので作るという知恵もない。目に留まった料理の材料をメモし、夕方買い物に出かける。
できあがるのが21時過ぎということもザラだった。なにしろ手際が悪いのだ。
その頃の、忘れられない料理の思い出がある。作家、宇野千代さんの料理本に載っていた「わかめの天ぷら」である。
当時、向田邦子さんや森瑤子さんなど食通の作家の料理本が好きで、よく眺めていた。御本人が好んで作っていたもののレシピと、ゆかりの随筆や小説の一部が引用されたビジュアル本である。ところが宇野さんのそれには、とてもおいしそうな写真と随筆が載っているのに、レシピがない。
そのなかで、パリッと軽やかな音がしそうな衣もまとったわかめの天ぷらは、いかにもおいしそうで、材料もシンプルだった。これなら作れそうだと、私は早速、干しわかめを水に戻した。
その晩、夫は仕事で帰りが遅かった。
戻したわかめを水切りし、さらにペーパータオルで拭き取ってから、衣の生地に浸し、スプーンで掬って熱した天ぷら鍋に入れた。ちょうど、玄関から夫の「ただいま」という声が聞こえた。
同時に、バリバリバリッ、ボォーッ、パチパチ。鍋から、今まで聞いたこともない爆音が生じ、油が台所中に飛び散る。私は腰を抜かすほど驚いて、ガス台から飛び退いた。血相を変えて台所に駆け込んだ夫は、バチバチ油が噴水のように跳ねる中、火を止める。
そして濡れタオルを鍋にかぶせながら、叫んだ。
「なにしてんねんっ」
私は、油を避けながら、言い返した。
「宇野千代のわかめの天ぷら作ったんだよ。本に書いてあるもん、ほらっ」
宇野さんの顔が大写しの表紙をちらっと見た夫がまた叫ぶ。
「そんな年寄りが、こんな危険な料理するはずがないねんっ!!お前の作り方がまちごうとるんやっ」
パニック的状況なので、夫の失言はお許しいただきたい。
なかなか水ハネが収まらない天ぷら鍋を遠巻きに見ながら、私は、はっとした。たしかにこれは危険すぎる。そうか、あの料理は、干しわかめをそのまま揚げていたのだ。最初から、水に戻す必要などなかったのだと。
干しわかめは水に戻してから使うもの、と決めつけていた自分、こんな単純な料理なのに、写真から工程を想像しきれない経験の浅さが情けなかった。
そのとき、料理に必要なのはセンスだ、丁寧さだ、真心だといろいろ言われるが、私は“経験”に尽きると痛感した。
ことが収まった深夜、夫と名もない近くの公園に、散り始めている桜を見に行った。嫁入り道具として母から持たされた重箱に、油でベトベトの、宇野さんの本とは似ても似つかぬしろものをつめて持参する。結婚して初めての花見であった。
夫は缶ビール片手に、わかめの天ぷらもどきを黙って口に運んでいた。
あれから家族も増え、必要に迫られ料理歴も長くなった。
今ならもう少しマシに揚げられるかもしれないが、作る機会を逃している。わかめの天ぷらは、酒のツマミで、子どものご飯のおかずにはならなかったからだ。
私の家族は二人で始まり、ひとりずつ増えて四人になり、やがてきっと二人に戻る。経験を重ねて料理が多少うまくなった頃には、子どもはいない。
「年寄りの」と叫んだ夫と、本当に年寄り二人に戻ったときに作ってみようか。
何も知らなかったが、あれはあれで結構一生懸命だったよな、夫が黙って食べたのは、それだけは伝わっていたのかな……。
彼女と籍を入れて、春から一緒に住もうと思うと、昨夜、長男が急に言うので、そんなことを不意に思い出した。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。『天然生活』『dancyu』『幻冬舎PLUS』等に執筆。近著に『届かなかった手紙』(角川書店)、『男と女の台所』(平凡社)など。朝日新聞デジタル&Wで『東京の台所』連載中。一男(23歳)一女(19歳)の母。
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