【金曜エッセイ】引越しの朝、ドアに掛けられたいなり寿司
文筆家 大平一枝
何度か書いてきたことだが、4カ月前にマンションを売却し、中古の戸建てに移り住んだ。
住み替えは自分で決めたことながら、引っ越しが迫るほどに寂しさがつのり参った。住まいを完全に手放すというのはこうもせつないものかと、とくに引っ越し前夜はこみ上げるものがあってなかなか寝付けなかった。
あの壁のピンクのシミは子どもを叱ったときにイライラして人参を投げつけたときの跡。この部屋は、田舎から子育てを手伝いに来てくれた母がよく泊まったな。この柱で娘と同じマンションのR君が小さい頃かくれんぼしてかわいかったよな……。
次々と思い出が湧き出てくる。新居のリフォームに胸膨らませていたそれまでが嘘のように、最後の夜は泣きぬれた。
とはいえ、越す先は徒歩10分。大げさな別れでもない。なのになんでこんなに泣けるんだ? 自分の心の揺れにとまどう。
引越し当日。
2トントラックが朝8時に来る。慌ただしく身支度をして外に出ると、ドアノブに紙袋がかかっていた。R君ママからの差し入れだった。“お手伝いできなくてごめんね”とメモが入っている。ぐっときたが、感傷に浸っている暇はない。私は紙袋と貴重品を抱えて先に新居に行き、掃除や引っ越し作業の準備をした。
午前11時過ぎ。作業の合間、つかの間の空白時間ができ、夫も新居に来た。がらんとしたリビングで「今のうちに腹ごしらえをしておこう」と、あの紙袋を開いた。
パックに色とりどりの具材がのったいなり寿司がきれいに2列、並んでいる。あなご、錦糸卵、桜えび、じゃこ、柴漬け。こんな美しいトッピングのおいなりさんは初めてだ。
「おいしいね」
「うん」
「ありがたいね」
「せやな」
言葉少なに二人でしみじみと頬張る。
じんわり、理由のわからない涙がこみ上げてくる。嬉しさと寂しさとあたたかさが入り混じったいろんな涙。あのママも働いている。朝7時台にこれを届けるには、何時に起きて作ってくれたんだろう。出勤前、自分の家族の食事の用意もあって忙しかったろうに……。
仕事が遅くなるときは互いに子どもを預け合い、幼い頃は風呂にも入れてもらい、あとは寝るだけの状態で帰ってくる。うちが預かったある日、彼女が「これ、明日食べて」と家族4人分のドーナツをお礼に持ってきた。
翌朝は、食事の用意をしなくていいのでとても助かり、私が預かってもらったときは真似するようになった。遅くまでやっている駅近くのドーナツ屋で買ったり、パン屋さんだったり。お礼の品を探さなくてもいいし、互いに負担にならず、もらった方は翌日助かる。
そういうさりげない気遣いが昔からできる人だった。
長男(R君兄)同士がおない年で、去年息子の結婚式に参列。先日は新居にシャンパンと、チーズとハムを山盛り持って訪ねてくれたらしい。
「俺が絶対買えないデパ地下の高そうなやつばっか!」と、写真が送られてきた。若い夫婦で家賃や生活費にキュウキュウし、贅沢できないのを見越しての気遣いかもしれない。あのママの子だなあと、写真を見ながら口元がほころんだ。
そのとき、自分は21年かけて親子それぞれに心のつながりを育んだ場から離れることが悲しかったんだと、眠れなかったあの晩の気持ちのありかがわかった。
少し離れた場所で、つながりはこれから熟成していく。さっそく越した翌月、コロナ禍の自粛要請が出ていない頃、ふたりで1泊の小さな旅をした。いつしか、子どもの話題が出ることは殆どなくなっていて、これからやりたいことや今打ち込んでいること、仕事の愚痴やら実家の家族の話が止まらない。
あのカラフルないなり寿司はひとつの関係性の区切りの味で、終わりでもあり始まりの合図でもあった。1枚だけ撮った差し入れの写真をながめると、今もじんわり特別なあたたかさに包まれるのである。
長野県生まれ。編集プロダクションを経て1995年独立。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)ほか。最新刊は『ただしい暮らし、なんてなかった。』(平凡社)。一男(26歳)一女(22歳)の母。
大平さんのHP「暮らしの柄」
https://kurashi-no-gara.com
photo:安部まゆみ
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