【読書日記|本から顔をあげると、夜が】第三回:小さな戦いの連続
穂村 弘
X月X日
『サスペリア』(ダリオ・アルジェント監督)を久しぶりに見た。いちばん好きなホラー映画だ。以前、対談させていただいた漫画家の楳図かずおさんも好きとおっしゃっていて嬉しかった。映像がとても美しい。冒頭の数分から惹きつけられる。いい映画は最初から面白いなあ、と当たり前かもしれないことを思う。夜、空港に着いた主人公の少女が、酷い雨の中で必死にタクシーを止めようとする。でも、なかなかうまくいかない、というシーンだ。
我々の現実はこういう小さな戦いの連続だと思う。傘と大きな荷物をもって移動するとか、時間がない時に限ってSuicaの残金が足りないとか。出先でトイレを探してもなかなか見つからず、「あった!」と思ったらもう人が入ってたとか。
でも、映画やドラマの中ではそういう要素はいちいち描かれないことが多い。巨大な敵との戦いは描かれても、日常の細部の面倒くささみたいなところはカットされがちだ。だから、例えば映画の美しいベッドシーンしか知らない若者が、実際に体験したらびっくりしてしまうんじゃないか。こんなにダサくて滑稽なものだったのか、と。
以前読んだ小説の中に、印象的なやり取りがあった。
「ロードムービーの中の人ってさ……」
「うん」
「あんなに移動しているのに、ぜんっぜん、疲れないのな」
「うん」
「嘘だって今、思ったよ」
『愛のようだ』(長嶋有)
その気持ち、わかるなあ。でも、大丈夫。「サスペリア」の主人公はいきなり惨めに混乱している。やっと拾えたタクシーの運転手との会話も妙に噛み合わない。そんなリアルな地点から、不穏な美しさに充ちた異世界の扉が開かれてゆく。
X月X日
新しい靴下を買おうと思って、吉祥寺の巨大なユニクロ城に向かう。が、途中で自分がユニクロのダウンジャケットを着ていることに気づく。この恰好でお店に入るのが、なんとなく恥ずかしい。お店側からすると、お得意様ってことだから、なんの問題もないはずだ。そう自分に云い聞かせるのだが、うまくいかない。まあ、靴下は今度でいいや、と目的地を変更して本屋に行った。
その夜、そういえば、と思い出すことがあって、昔の新聞歌壇の切り抜きを探してみた。
ユニクロへ買いに行くからユニクロのシャツは着れない無印を着る 榊原 猛
この短歌を発見して、ほっとする。やっぱり私だけじゃないんだ。わざわざ商売敵の服を着て行く気持ち。ということは、そうか、今日の自分は逆に無印に行けばよかったのか。気づかなかった。日常は小さな戦いの連続だ。
X月X日
前述のように、多くのエンタテインメント的な映画やドラマでは、現実の平凡さがカットされ、楽しく興奮できるところが巧みに増幅されている。そのために、なんとなく、感情を操作されているような気分になる。ほら、ツボはここでしょ、それから、こうきて、こうきて、ここで感動、もうたまらないよね、と。確かにそれはそうなんだけど。
だから、見終わった後で、楽しかったという気持ちの中に微かな虚しさを覚えることがある。映画は楽しかった。でも、自分の現実は何も変わっていない。もし私があのアクション映画の主人公だったら、五分以内に確実に死んでいるだろう。
でも、じゃあ、そんな平凡な自分の生は退屈なだけのものなのだろうか。日常の小さな戦いの惨めさや混乱、自分自身のダサさや滑稽さ、そういうものを逆に拡大して味わいたくなることがある。平凡な人生のしょうもないところにも何らかの意味や価値があって欲しい、と願うからだ。
そんな時、私はどこかマイナーな雰囲気の映画やドラマ、私小説やエッセイ漫画、或いは短歌などに触れてみる。漫才やコントを見ることもある。そこではアクション映画だったら、五分で死んでしまうような我々の、小さな悪戦苦闘にスポットライトが当たっている。
三年間一度も試合に出なかった同士で部室掃除している
乗車位置ではないところに立っているわたしの後ろに出来た行列
一度しかたぶん通用しないけど白鵬に勝つ技があります
『平和園に帰ろうよ』(小坂井大輔)
くだり坂ばっかりだったはずなのにのぼってきたみたいにくるしい
現状を打破しなきゃって妹がおれにひきあわせる髭の人
『羽虫群』(虫武一俊)
どうしたらいいかと兄に聞いてみるガメラとガメラ2見せられる
『いらっしゃい』(山川藍)
1962年北海道生まれ。歌人。1990年歌集『シンジケート』でデビュー。詩歌、評論、エッセイ、絵本、翻訳など幅広いジャンルで活躍中。著書に『本当はちがうんだ日記』『世界音痴』『君がいない夜のごはん』他。
1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。
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