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【連載|生活と読書】第十一回:だれかの話に耳を傾けること

【連載|生活と読書】第十一回:だれかの話に耳を傾けること

夏葉社・島田潤一郎さんによる、「読書」がテーマのエッセイ。ページをめくるたび、自由や静けさ、ここではない別の世界を感じたり、もしくは物語の断片に人生を重ねたり、忘れられない記憶を呼び起こしたり。そんなたいせつな本や、言葉について綴ります。月一更新でお届けしています

島田 潤一郎



 我が家の娘は小学校三年生ですが、去年の夏休み明けからは毎日1コマしか授業に出ていません。あまり学校には行きたくないそうです。
 一年生のころからそうした傾向はあったのですが、当時は彼女なりに我慢して毎日登校していました。
 そのころ、授業参観で娘の様子を見たのですが、彼女はだれよりも緊張して、親のほうを振り返る余裕がありませんでした。ほかの子どもたちはみんな、何度も、お父さん、お母さんのほうを見たのに。
 そうした日々を100日も、200日も過ごして、身も心も疲れてしまったのだと思います。

 授業を受けるときは、必ずぼくか妻が付き添っています。心配だからついていっているというよりも、ぼくたちがいないと娘は教室に入らないのです。
 彼女が授業を受けているあいだ、ぼくは勉強のサポートもしますが、本を読んだり、クラスメートの様子を見たりしています。
 心中はおだやかではありません。
 娘以外の30人はひとりで学校に来て、ちゃんと一時間目から五時間目まで授業を受けているのに、なぜうちの娘だけそうではないのだろう……。なぜ、娘だけがとくべつに過敏で、ほかの子どもたちは違うのだろう……。そんな答えのない問いを繰り返し考えています。

 人間にはそれぞれ個性があり、30人いたら30人がそれぞれ違う、ということは知っています。
 でも、友だちとしゃべることが極端に苦手で、自分の気持ちを抑えることも苦手な娘の個性を、「30人いたら30人がそれぞれ違うんだ」というような一般論で理解することはとても難しいです。
 日々の仕事もなるべく減らし、平日は正午までは娘と過ごしているのですが、自分の娘を理解する難しさに、日々直面しています。

 なにかひとつの出来事が事態を大きく変える、ということももちろんあるでしょうし、ぼくと妻は無意識にそれを願っているような気もします。
 でも冷静に考えると、おそらくそうではないのです。それよりも、長い時間をかけて、娘に寄り添うことがなによりもたいせつなのだと思います。一ヶ月でもなく、半年でもなく、一年でもなく、三年でもなく、五年でもなく、もっと、もっと長い期間。

§

 そのこころの支えとして頼りにしているのが、ぼくの場合、紙の本です。
 精神医学などの専門書を開くこともありますが、それよりも、日々の生活にはまったく関係ないであろう本を選んで、それをちょっとずつ読んでいます。
 現実はたいてい思うようにならず、短期的な目標を定めたりしたら、毎日は挫折の連続となります。
 そうでなくても毎日はとても慌ただしいのですから、これ以上余裕のない、苦しい日々を過ごしたくありません。

 本のすばらしいところのひとつは、自分のペースで読めることです。一冊の本を一日で読むこともできるし、一週間、一ヶ月、一年かけて読むことも可能です。
 本一冊あれば、ほかにはなにも必要ありません。電源は要りませんし、場所だって、気にさえしなければ、書斎でなくても、喫茶店でなくても、バスの停留所や、駅の改札口、木陰も、トイレのなかも、本を読む格好の場所となります。

 一ページ、二ページだっていいのです。
 自分の言葉とは違うだれかの言葉に一所懸命耳を澄ますことで、読み手はいまの時間、空間とはちがうどこかへ行くことができます。
 ぼくは本の世界をとおして、自分のいまいる場所を眺めます。仕事のこと、妻のこと、今日のこれからの家事のこと、そして息子と娘のこと。

 本を、なにかたいせつな知恵を与えてくれるもの、あるいは心理を与えるものとして読むと、多くの場合、その期待は裏切られるように思います。
 そうした読書は、現実の世界と同じくらいに慌ただしく、本が本来もっている価値や魅力を見誤らせます。
 たいせつなのは、だれかの話に耳を傾けることで、その静かな世界から現実にふたたび目を向けると、なぜだか、「うん、まあなんとなるだろう」という気持ちになります。

 本はぼくを助けてくれていますし、いつか、娘のことも助けてくれると思っています。




『万葉集 全訳注原文付(一)』
中西 進 (著) 講談社

今年の八月からは毎日、講談社文庫の『万葉集』(中西進訳註)を読んでいます。収められている歌の数は4500首。すばらしいなあ、と感じる歌ももちろんありますが、それよりも(つまり読書を楽しむというよりも)朝食を摂るように、マラソンをする人が毎朝走るように、起床してから30分のあいだ、老眼鏡をかけて、この文庫本をゆっくりゆっくり読んでいます。そうすると、不思議とこころが整っていく感じがします。


文/島田潤一郎
1976年、高知県生まれ。東京育ち。日本大学商学部会計学科卒業。アルバイトや派遣社員をしながら小説家を目指していたが、2009年に出版社「夏葉社」をひとりで設立。著書に『あしたから出版社』(ちくま文庫)、『古くてあたらしい仕事』(新潮文庫)、『父と子の絆』(アルテスパブリッシング)、『電車のなかで本を読む』(青春出版社)、『長い読書』(みすず書房)など
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写真/鍵岡龍門
2006年よりフリーフォトグラファー活動を開始。印象に寄り添うような写真を得意とし、雑誌や広告をはじめ、多数の媒体で活躍。場所とひと、物とひとを主題として撮影をする。

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