【読書日記|本から顔をあげると、夜が】第十一回:何も起こらなかった時代

穂村 弘

X月X日

 古本屋で見かけた『踊るミシン』(伊藤重夫)が、どうしても読みたくなって買ってしまった。けっこうな高値がついていた。しかも、この本は昔、所有していたことがあるのだ。何年間もずっと自分の本棚にあった。それなのに何故か、読まずに手放してしまった。今になって買い直すことになるとは。でも、仕方ない。本って思い通りにならない生き物みたいなところがあるから。
 ところが、である。同じ書店の別のコーナーで怖ろしいものを発見してしまった。なんと、『踊るミシン』の復刻版が出ているではないか。買ったばかりのオリジナルよりもずっと安い値段で。ぎゃー。いくらなんでも思い通りにならなさすぎるよ。反射的に頭の中で差額を計算してしまう。店員さんに事情を説明して取り替えて貰おうか。同じ書店なんだから、無理ではないんじゃないか。でも、それだけのことが云い出せない。臆病というのか、シャイというのか、見栄っ張りというのか。自分の性格が嫌になる。差額のことをずっと考えながら帰りの電車に乗った。それから、僕はお酒も飲まないし、パチンコもしないし、キャバクラにも行かないから、本くらい買ってもいいんだ、といつもの云い訳を自分に向かってした。

 

X月X日

 『踊るミシン』を読んだ。もっと早く読めばよかった。つげ義春の遺伝子を強く感じさせつつ、そこには紛れもなく八十年代の青春が描かれていた。何か素晴らしいことが今にも始まりそうで、きっとどこかではもう始まっていて、でも、自分たちはその前に消滅してしまいそうな、あの透明な前夜の空気感。

 

X月X日

 八十年代の青春を描いた漫画繋がりで、『YASUJI東京』(杉浦日向子)を読み返した。西神戸を舞台とした『踊るミシン』との違いは、舞台が東京であること。そして、自分たちが生きるその街を、明治の画家である小林清親や井上安治の描いたかつての東京と重ね合わせていることだ。

明治維新
関東大震災
敗戦
東京オリンピック
次は何で変わるんだろう。

『YASUJI東京』

 『YASUJI東京』の登場人物から見ると、私は二十一世紀を生きる未来人のはずだけど、この問いに即答することができない。その後、東京は何で変わったんだろう。バブル? インターネット? 東日本大震災? 新型コロナウイルス?

 

X月X日

 新しく引っ越してきたところが、生前の杉浦日向子が住んでいた駅の隣町らしいことを知った。なんだか嬉しい。この道を歩いたかな、とか、このお蕎麦屋さんに来たかな、などと考えながら散歩をしている。西荻窪に住んでいた頃は、鞍馬というお蕎麦屋さんに行くと、彼女のお気に入りだったという三人掛けの奇妙な席に座ることにしていた。その近くには松本清張の行きつけだったというパチンコ屋もあったけど、そっちは入ったことがなかった。清張ファンだけど、パチンコはやらないからなあ。

 

X月X日

 八十年代の東京の青春を描いた漫画繋がりで、『東京ガールズブラボー』(岡崎京子)を読み返した。『YASUJI東京』との違いは、連載されたのが九十年代であること。つまり、少しだけ未来から過ぎ去った時代を振り返っているのだ。

ヤノアキコけおとしてYMOの一員になる
そーゆんじゃなくてェ~
アンアンの「おしゃれグランプリ」の東京代表になる
コム・デ・ギャルソンのハウス・マヌカンになりたい
どこがでかいことなんだ
わかんない
あたしって本当は何がしたいのかなあ

『東京ガールズブラボー』

 そうだったなあ、と思う。きらきらした空気の中に、きらきらした人々の姿が見える。自分もあそこに行きたい、ナニモノかにならなくてはいけない、という焦り。今でいうところの「承認欲求」と近いようで少し違う。当時の言葉でいう「自己実現」だろうか。そのくせ、世界に向かって手も足も出せないまま、ぼーっとしてしまう。真夜中のデニーズで、友だちとこんな話をしたことを憶えている。

「ライスお替わりするけど、半分こしない?」
「いいね」
「ライスお替わり自由のファミリーレストランがあったら、業界を制するのにな」
「だな」
「本社の連中は何でわかんないんだろうな」
「アホだから」
「だな」

 ナニモノでもない自分たちが、すべてを知っているような顔をして、いつまでも意味のないことを喋っている。憧れの場所、憧れの自分から、何億光年も離れた夜の明るい片隅で、毎晩飽きることなく同じメニューを開いていた。

そしてそれから
みんな、口をそろえて
「80年代は何も無かった」ってゆう

何も起こらなかった時代
でもあたしには……

『東京ガールズブラボー』

 二〇二二年、新型コロナウイルスの降る世界で、マスク姿の私の望みは、真夜中のデニーズに行きたい、ということだ。明るくて広いボックス席に座って、アイスティーを飲みながら、『踊るミシン』か『YASUJI東京』か『東京ガールズブラボー』を開く。そして時々、窓の外を見ながら、無くなってしまったお店や昔の知り合いのことを考える。これから何をしたらいいか考える。それだけでいいんだけど。

 

1962年北海道生まれ。歌人。1990年歌集『シンジケート』でデビュー。詩歌、評論、エッセイ、絵本、翻訳など幅広いジャンルで活躍中。著書に『本当はちがうんだ日記』『世界音痴』『君がいない夜のごはん』他。

 

1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。

 

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