【金曜エッセイ】一本の電話から、新米母だった日々を思い出す(文筆家・大平一枝)
文筆家 大平一枝
第十一話:せいいっぱいのお祝い返し
「ふふ、誰かわかる?」
自宅の電話が久し振りに鳴った。携帯電話の番号を知らない間柄で、こんなに親しげな声の主とは一体誰だろう。
「えーっと、えーっと、○○(息子)の学校関連の方ですか?それとも××(娘)?」
「そうね。そのどちらもだわね」
くくっと楽しそうに笑う声でやっとわかった。20年前、息子がお世話になったベビーシッターさんだ。
「ママでしょう!」
「やっとわかったわね。元気?年賀状を見たら懐かしくなってかけちゃったわ」
当時、ライターになりたてで、2歳の子どもを抱え、保育園のほかに近所で助けてもらえるような人を探していた。藁にもすがる思いで、近くのスーパーマーケットに貼り紙をしたら、「うちでよければ。母も私も小さなお子さんが大好きなんです」と優しそうな20代のお嬢さんが家を訪ねてきてくれた。聞けば同じマンションに住むお嬢さん2人とお母さんのご家族だという。
お嬢さんたちがママと呼んでいたので、私も真似してそう呼んだ。仲良くなってからは、子どもとともに毎晩のようにお邪魔し、転居するまで4年、家族ぐるみのおつきあいが続いた。向こうの家にあった息子用の小さなスリッパは、ママが用意したのか、私が持っていったのか……。
それから我が家は何度も転居し、ママの一家も転居した。年賀状だけのやり取りになって10年以上経つ。
ママは、若い頃、花嫁修業にいそしんだそうで、料理の達人なうえに、もりつけやもてなし、部屋の季節のしつらいがそれはそれは見事だった。
クリスマスには大きな七面鳥をさばき、手作りのオーナメントを部屋に飾る。いつ訪ねても、季節に合わせたテーブルクロスが敷かれ、私のような20も下の若造に、美しいもてなし用の箸を出した。
冷たいものはガラス鉢に、暖かいものは漆器に。料理に応じた器の合わせ方も、そこで初めて覚えた。
レシピもたくさん知ったが、ママから一番教わったのは “もてなし” のありかただ。彼女はふだんの食卓の盛り付けにも一切手を抜かなかった。
それに比べて私の毎日は、仕事に育児に、あまりにもせわしなくて、料理は作るだけで精一杯。家族のために、おいしいものを最善の美しい出し方で並べるそのスタイルは驚きであり、憧れだった。
今、あの頃のお嬢さんたちの年齢に、我が子がなろうとしている。私はママみたいに、食卓をきれいに整えられているだろうか。
電話の思い出話は止まらず、わたしはどうしてもママの料理が食べたくなり、家族でおしかけることになった。
学生だった下のお嬢さんも今は会社のベテランらしい。この春大学を卒業する息子に、ふたりそれぞれ就職祝いの包を差し出した。歳月の流れに感慨を抱いていると、急にママが言った。
「あなたからもらったお皿、ずーっと使ってるのよ。本当にいろんな料理に使って重宝したわ。ね?ほらみせてあげて」
お嬢さんが食器棚から取り出したのは、私が娘の出産の内祝いに、悩みに悩んでギャラリーで買った作家物の赤絵(あかえ)の器だった。
ああ、と胸がいっぱいになった。贈ったことさえ忘れていた。テーブルコーディネートに長けた人生の先輩に、お返しをするにはどうしたら喜んでくれるだろうと、あちこち歩きまわってやっと見つけた一枚だった。当時、私の引っ越しも決まっていて、それは実質、さよならがわりの御礼でもあった。時間も知恵も経験もなかった新米母の日々がありありと思い浮かぶ。
赤絵の皿からいろんなことを思い出した。いつもてんてこ舞いで、小走りだった日々。仕事もいいいけど、もう少し子どものことを気遣っておあげなさいというママからの無言のメッセージ。そして、いろんなひとに助けてもらって今の自分があるという大事なこと。
子どもは夫婦だけでは育てられない。
社会人になる息子を、どこか自分たちだけで育て上げたような気になっていた。
私は大事なひとやしてもらったことを、もっとほかに忘れているかもしれない。
就職のお祝い返しは、息子に任せるとしよう。彼もきっとうんうん言いながら悩むのだろう、あの赤絵のお皿のように。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。失われつつある、失ってはいけないもの・こと・価値観をテーマに、女性誌、書籍を中心に各紙に執筆。『天然生活』『dancyu』『Discover Japan』『東京人』等。近著に『届かなかった手紙』(角川書店)、『男と女の台所』(平凡社)、『あの人の宝物』『紙さまの話』(誠文堂新光社)などがある。朝日新聞デジタル&Wに、『東京の台所』(写真・文)連載中。プライベートでは長男(22歳)と長女(18歳)、二児の母。
▼大平さんの週末エッセイvol.1
「新米母は各駅停車で、だんだん本物の母になっていく。」
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