【金曜エッセイ】地下鉄の駅から出たときに。

文筆家 大平一枝


第四十六話:突然たちのぼる記憶


 

 東京のとある街についてのエッセイを書くことになった。古い神社のあるその街には何度か訪れ、最後は六年前である。名所にまつわるぼんやりした記憶をたぐりよせながら、久しぶりに足を伸ばした。

 地下鉄の駅から地上に出る。ああ、ここだ。瞬時に、ありありとこれまでの記憶が鮮明に蘇った。あの店で団子を買い、別の日にその路地裏で住まいの取材をした。また、正月は隣の駅まで散歩をしたっけ。
 歩き出すと、訪ねた家で出された手作りのいちじくジャムの色や味まで思い出される。

 あちこち工事のまっ最中で、風景は変わっているが、この空間に身を置き、食べたり笑ったり考えたり感動した体験は、まるで昨日のことのよう脳裏に浮かぶ。
 記憶というのは不思議なものだと思った。
 あの街はこう、とぼんやり机上で決めつけていたイメージが、色や匂いや触感を伴って、映像のようにどこからか立ち上り、感情のひだに隠れていたささやかな感動や喜びまでが、はっきりと輪郭を持って表出する。

 過去に、映画のロケーション・ハンティングはパソコンの地図を眺めているだけではだめで、その場に行って初めてわかることがたくさんあると書いた。
 街の記憶も同じだ。わかったような気になっていても、大事なことのほとんどは体の奥に沈んでいて忘れてしまっている。

 私のスマホにはおびただしい量の写真が毎日蓄積されていくが、どんなに眺めても目に映るビジュアル以上の記憶はそれほど呼び起こされない。しかし、現場に立つと五年一〇年前の記憶でも、一瞬で細部まで極彩色で蘇る。母校の小学校に立つと、かつてのチャイムの音や休み時間の歓声がどこからか、聴こえてくるように。

 行かなくても疑似体験できる便利なツールは増える一方だ。
 だからこそ私は、足や手を動かす醍醐味や妙味を忘れないでいたいと思う。だってあの地上口で、失われかけた記憶がこんなにも簡単に引き出され、甘酸っぱく幸福な気持ちになれたのだもの。
 歳を重ねるほど、見知ったエリアでしか行動しなくなりがちだ。そして情報や知識で、おおかたのことを決めつけたくなる。年配者にありがちな頑固や了見の狭さは、そういうところから育つのかもしれない。
 涼しくなったらたくさん歩こう。出かけよう。新鮮に驚いたり心を動かされた懐かしい自分に再会するために。

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文筆家 大平一枝

長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。『天然生活』『dancyu』『幻冬舎PLUS』等に執筆。近著に『届かなかった手紙』(角川書店)、『男と女の台所』(平凡社)など。朝日新聞デジタル&Wで『東京の台所』連載中。一男(23歳)一女(19歳)の母。

大平さんのHP「暮らしの柄」
https://kurashi-no-gara.com

▼本連載の過去記事はこちら

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