【57577の宝箱】今日もまた同じ朝来る 生きるとは「善く在るように」と繰り返す日々
文筆家 土門蘭
平日の朝、いつも行う習慣がある。玄関とトイレとリビング、この3箇所の掃除だ。お風呂や台所など、ちょっと大掛かりな掃除は休日にする。自宅で仕事をし始めてから3年が経つので、この習慣もそれくらい続いていることになる。
子供たちを学校や保育園に送り出したら、まずトイレを掃除する。シートで便器や床を拭き、便器の中に洗剤を吹き付けてブラシでこする。それから洗濯物を庭で干したら、家の中に入るタイミングで、玄関の靴を片付け履き掃除。その後、コーヒーを淹れるためのお湯を沸かしている時間に、リビングの床に掃除機をかけ、棚や鏡を軽く雑巾で拭く。簡単な掃除なので、30分もかからない。それでも毎日続けていれば、ちゃんときれいになる。
掃除を終え、コーヒーを淹れ終わり、清々しいリビングでパソコンを立ち上げる。
この状態がわたしのスタート地点。
毎日の掃除は、新しい気持ちで仕事を始めるための、わたしのささやかな儀式なのだ。
§
とは言え、もともとこんなに掃除をする方ではなかった。
一人暮らしだったころの部屋は帰って寝るだけだったし、床に埃が目立ってからやっと掃除をするくらいの手の抜きようだった。
掃除に対する意識が変わったのは、就職して上京し、東京で初めて行きつけになった美容院がきっかけだった。
ある日、友人の住む街の商店街を歩いていたら、柔らかく光を放っているような美容院を見かけた。特に派手だったりおしゃれだったわけでも、新しかったわけでもない。ただ、通路に面したガラス窓や店内の鏡がピカピカで、かかっていたカーテンが真っ白で、日の光が美しくそこに反射していた。それで明るく見えたのだ。
わたしは電話番号を控え、そのお店に予約を入れた。ここで髪を切ってもらったら、すごく気持ちがいいだろうなと思って。
そこに通うようになってから驚いたのは、店内はもちろん、特にトイレがとてもきれいなことだった。初めて足を踏み入れたときには、びっくりして声が出てしまったほどだ。
ピカピカに磨きあげられた室内に、小さな窓から光が差し込んでいる。手洗い場には可憐な花が飾られ、美しいケースに入ったハンドソープが置かれ、ほんのりといい香りがする。なんの変哲もないトイレなのに、その美しさに感動してしまった。掃除が行き届いているというのは、こういうことを言うのだなと。
思わず担当の美容師さんに「このお店は、トイレもすごくきれいなんですね」と伝えると、彼女は笑ってお礼を言い、「私たち、掃除をすごく大事にしているんですよ」と言った。
「センスとか技術って、美容師にとってもちろん重要なものなんですけど、一朝一夕で身につくものじゃないんですよね。でも、掃除って手を動かせば誰でもできるじゃないですか。きれいにしようっていう気持ちさえあれば、今すぐ実現できるっていうか」
美容師さんはてきぱきとわたしの髪を切りながら、こう続けた。
「そういうやればできることをまず頑張ろうって、みんなで決めたんです。ちなみにトイレは、特に力を入れて掃除しているんですよ。普段見えないところこそ、しっかりきれいにしようって。そういうのがセンスや技術にもいつか出るはずだから」
わたしが「すごいなぁ」とつぶやくと、彼女は「すごくないですよ、熱く語りすぎましたね」と照れ笑いした。
「でも、手を動かせば絶対にきれいになるって、なんだか安心しませんか?」
鏡ごしに彼女がわたしに笑いかける。そこには、彼女の手によって清々しく整えられたわたしの姿があった。
§
その日は帰ってから、すぐに部屋を掃除した。彼女の話を聞いていたら、掃除がしたくてうずうずしてきたのだ。
出しっ放しだったものを片付け、不要なものを捨て、埃やゴミを取り除き、仕上げに雑巾で床を拭く。「手を動かせば絶対にきれいになる」……彼女の言葉は本当にその通りで、部屋はどんどんきれいになっていった。
仕事や人間関係のあれこれは、考えて動いてもうまくいかないことって多いけれど、掃除は何も考えなくても、手を動かした分だけその場が良くなっていく。
それはなんて安心できることなんだろうと、黙々と掃除を続けながら彼女の言葉を反芻した。
ピカピカになった部屋でお茶を淹れ、ひとり静かに飲む。
時間がかかって疲れたけれど心が満ち足りていて、「自分は自分のための仕事をしたんだな」と思い、なんだか少し誇らしかった。
自分の仕事で、自分が喜ぶ。その循環から小さな自信が生まれる。
もしかしたらあの美容師さんにとっての掃除って、そういうおまじないなのかもしれないな。ふと、勝手にそんなことを思った。それから掃除は、わたしの毎朝の儀式なのだ。
東京から京都に引っ越し、あの美容院には通えなくなったけれど、お店の名前を検索してみたらやっぱり今も清々しい姿のお店の写真が現れた。
今もあの美容師さんは、ここで手を動かしているのだろうか。絶対にきれいになる、そう信じながら。
私たちの日々には、どんな言葉が溢れているでしょう。美しい景色をそっとカメラにおさめるように。ハッとする言葉を手帳に書き留めるように。この連載で「大切な言葉」に出会えたら、それをスマホのスクリーンショットに残してみませんか。
1985年広島生まれ。小説家。京都在住。小説、短歌、エッセイなどの文芸作品や、インタビュー記事を執筆する。著書に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』がある。
1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。
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