【57577の宝箱】わたしのじゃない人生に出かけます 帰ってきたら愛せるように
文筆家 土門蘭
ある金曜の夜、わたしの心は乾いていた。
忙しくてなかなかゆっくりできない1週間だったので、ストレスが溜まっていたのもある。その上、仕事でうまくいかないことがあって悶々と悩んでいた。週明けからもスケジュールが詰まっているし、この土日にいろいろ準備しておかないとなぁ。そう思うと、溜まっていた疲れがどっとやってきた。心がかさかさに乾いて、硬くなる感じ。
そんな中でも、日々のルーティンは待ってくれない。学童や保育園に子供を迎えに行き、夕飯を用意し、洗濯物をたたんだりお風呂を洗ったりする。片付けても片付けても次々と待ち構えている家事が、ベッドにたどり着くまでの障害物のように思えてきて、「これはビールでも飲まないとやってられないな」と思い冷蔵庫を開けたら、そこには1本の姿もなく、絶望でくずおれてしまいそうになった。が、くずおれている時間もない。しかたないので、水道水をがぶ飲みする。
子供たちをお風呂に入れ、先に寝かせることにした。いつもは自分も一緒に眠っているのだけど、なんだかその日はすぐ眠れそうになかった。疲れているのに、心に消化不良なものが残っている感じ。パソコンに向かって、仕事の続きでもしようかなと思ったが、やっぱりそれも気が進まなかった。
§
お茶でも淹れようとキッチンへ向かう。お茶っ葉が入っている箱の中をがさごそとのぞいてみたら、以前買ったハーブティーがあった。
「はちみつをたっぷり入れて、リラックスタイムをお楽しみください」
リラックス、ずいぶんしていないな。そう思って、その言葉通りにすることにした。ハーブが滲み出て真っ赤に透き通るお湯に、はちみつを垂らす。
ハーブティーをすすっていたら「映画を観ようかな」という気になってきた。
普段は子供と一緒なのでなかなか好きなものを観られないけれど、今日はひとりだから、観たかったものを気兼ねなく観ることができる。そう思うと、急に心がわくわくしてきた。そういえば観たかった作品があるんだ。ウォン・カーウァイ監督の『花様年華』。友人が、とても美しい映画だと言っていた。
手元にある真っ赤なハーブティーが、偶然にもその香港映画にぴったりな気がして、わたしは久しぶりに自分の手でテレビをつけた。ソファに座って、毛布にくるまり、温かいハーブティーを手に映画の始まりを待つ。
§
美しい人々、色鮮やかな衣装、行ったことのない街、耳慣れない言葉。
こんなふうにひとりで映画を観るのはいつぶりだろうか。
なにか、大きな事件が起こるような映画ではない。ショッキングなシーンもない。静かに進むストーリーの中で、人と人が出会い、会話をし、表情を変え、感情を表す。そんなひとつひとつを、何を考えるでもなく眺めていた。まるで、自分の体から心が離れ、その映画の中に沈み込んでいくようだった。心が、映画の中の景色とともに色を変えていくような。
観終わったあと、カップを見下ろすとすでにハーブティーは残っていなかった。
映画の中に沈んでいた心が、再びわたしの胸のうちに戻っている。さっきまでかさかさに乾いていた心が、みずみずしく潤っているのがわかる。さまざまな言葉や表情や景色にひたされて戻ってきた心は、まるでお風呂あがりのように温かくなっていた。
§
リモコンを手に取り、テレビを消す。カップを洗い、歯を磨き、子供たちがすやすやと眠っている布団の中に潜り込んだ。明日の土曜も、家事に育児に仕事にと、やることがいっぱいある。これがわたしの生活、わたしの人生。
だけどさっきわたしは、他人の人生の中に入り込むことで、この人生から一度抜け出したのだと思った。ドキドキしたり、切なくなったり、笑ったり、しんみり泣いたり。そのおよそ100分の間、他人の人生を生きることで、自分の人生を休んでいたのだ。だから今、なんだかとてもリフレッシュしている。
にっちもさっちもいかない、自分の人生。そんな中で心が乾いたら、これからもときどき別の人生に遊びに行ってみようと思った。自分の人生からちょっと離れてみると、帰ったときになんだか違って見えるようだ。「自分の人生も、悪くないじゃん」と。
それからわたしは、疲れたときにはひとりで映画を観ている。
さて、次は何を観ようか。これからも道のりはきっと長いのだから、休み休み行こう。
私たちの日々には、どんな言葉が溢れているでしょう。美しい景色をそっとカメラにおさめるように。ハッとする言葉を手帳に書き留めるように。この連載で「大切な言葉」に出会えたら、それをスマホのスクリーンショットに残してみませんか。
1985年広島生まれ。小説家。京都在住。小説、短歌、エッセイなどの文芸作品や、インタビュー記事を執筆する。著書に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』がある。
1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。
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