【57577の宝箱】アールグレイティーの香りがつくりだす 貴婦人だった頃の記憶を

文筆家 土門蘭


最近、新しい趣味ができた。それは「香水」だ。

私は昔から香水が好きだった。嗅覚が過敏になったのをきっかけに遠のいていた時期もあったけれど、最近また香水熱が上がってきている。その理由は多分、人に会うことが減ったからだと思う。

香水をつける時というのは、結構気をつかう。自分の好みの香りでも、相手は好きじゃないかもしれないし、それこそ嗅覚が過敏な方には苦痛に感じるかもしれない。そう考えると、どうも香水をつけにくい。

だけどこのご時世で、人に会う機会が少なくなった。家で一人仕事をしていると、誰に気をつかうこともなく、好きな香りを好きなだけまとうことができる。1日自分の好きな香りに包まれて過ごすのは、なんともいい気持ちだ。

§

以前は同じ香水をずっとつけていたけれど、今は毎日違う香水をつけるのが楽しい。

というのも最近、香水のサブスクリプションを利用し始めたのだ。
少量の香水が月に1度、数種類届くサービスで、これがとても良くて愛用している。気づけば、手元には20本あまりの小さな香水が集まった。

香水は、結構お値段が張るのが悩みだ。1瓶数万円するものもあって、なかなか手が出しにくい。買ってはみたものの、つけてみるとイメージと違っていて棚にしまったまま、なんてこともよくある。

それなので、少量売りをしてくれるサービスはとてもありがたい。気になっていたけれど近くで売っていないものや、一度は試してみたかった有名香水など、いろんな香水を取り寄せては試している。新しい香りを体感できるのが楽しみで、毎月ワクワクしながら開封している。

そんなふうにコツコツ集めてきた香水たちの中から、毎朝、その日の気分のものを選び出すのが日課になった。
柑橘系、フローラル系、ウッディ系……自分でも不思議だけれど、毎日「これ」と思うものが違っていて、日々、私の体調や気分は変化しているのだなぁと自覚する。そんな自分の感覚に、耳を(鼻を?)澄ませるような時間だ。

香水が決まると、シュッとくるぶしにひとかけ。それから、湿ったくるぶしを手首でちょんちょんと叩く。そうするとふんわり香りをまとうことができるし、ちゃんとかぎたい時には手首に鼻を近づけたらいい。

「ああ、いい匂い」
そんなつぶやきと共に、私の1日は始まる。

§

ところでこの間、ちょっとした嫌なことがあった。
「そりゃないんじゃないの」という対応を知り合いにされて、でもちゃんと指摘することもできなくて、気持ちがくさくさしていた。

私は仕事部屋の中でひとり、ぶつぶつと愚痴を言った。負の感情を体外へ出すためにも、愚痴を吐くのは必要なことだと思うが、どうも部屋の空気が濁ってしまう。私はひとしきり文句をつぶやいたあと、窓を開けて換気した。

それからふと思い立ち、香水コレクションの箱を取り出した。一個一個匂いをかいで、これだと思うものを部屋に向けてプッシュする。それはミラー ハリスの「ティー トニック」という香水で、名前通り紅茶の香りがするものだった。

部屋の中に、品の良いアールグレイティーの香りが広がる。その瞬間、怒りや愚痴で淀んでいた部屋の空気が、みるみる生まれ変わるのを感じた。景色は同じなのに、雰囲気が全然違う。ギスギスと殺伐していた部屋の中が、まるでおいしい紅茶を出してくれるカフェのような、ゆったりとした素敵な雰囲気になった。

「すごい、空気が変わった」と思った。
そういえば、お香には魔除けや厄除けの役割があるのだと、何かで読んだことがある。
もしかしたら香り自体に、そういった良くないものを払拭する働きがあるのかもしれない。そう思うほどに、気持ちがずいぶんすっきりして明るくなった。

良い香りをかぐと、自分自身までその香りに染められて、良いものになったかのような気分になる。ぶつぶつと怖い顔をして怒っていた私が、今では香り高い紅茶を楽しむ淑女のような表情をしているのが、鏡を見なくてもわかる。さっきまで「本当に許せない!」と怒っていたのに、「そんな小さなこと、どうでもよくってよ」という気にまでなっている。すごいことだ。

空気が変われば、気分も変わる。香水にはそんな力もあるのだな、と驚いた経験だった。

§

それ以来、ちょっと香水の使い方が変わった。
前まではただ好きな香りをまとっていただけだったけれど、その場に足りない「空気」感を足す、ということも意識するようになった。

例えば最近では、洋服のイメージと逆の香りを身につけるようにしている。
Tシャツにデニムといったカジュアルな格好ならば、ローズ系のオーセンティックな香りを。逆に大人しめなワンピースを着る時には、重ためでスパイシーな個性的な香りを。

今ここにない雰囲気や気分を、香水で足してあげる。するとその場のバランスがうまくとれて、スムーズに何かが回り出すような気がするのだ。

やたらと落ち込む時は、元気なオレンジ系の香りを。イライラする時は、すっきりするミント系の香りを。疲れている時には、甘いバニラ系の香りを。

そんなふうにいろんな香りに助けられながら、日々を過ごしている。
自分の香りはこれ!と決めていた時よりも、いろんな自分に出会うことができ、心強い仲間が増えたような気持ちだ。

 

“ アールグレイティーの香りがつくりだす貴婦人だった頃の記憶を ”

 

1985年広島生まれ。文筆家。京都在住。小説、短歌、エッセイなどの文芸作品や、インタビュー記事を執筆する。著書に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』がある。

 

1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。

 

私たちの日々には、どんな言葉が溢れているでしょう。美しい景色をそっとカメラにおさめるように。ハッとする言葉を手帳に書き留めるように。この連載で「大切な言葉」に出会えたら、それをスマホのスクリーンショットに残してみませんか。

 


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