【金曜エッセイ】なかなか名前を覚えられない、という悩み(文筆家・大平一枝)
文筆家 大平一枝
第三話:苗字忘れ病
毎月、数人のクルーで動く仕事がある。カメラマン、ヘアメイク、プランナー、編集者、主役の俳優。年齢も経歴もバラバラ。編集者以外は初対面である。
初顔合わせのとき、最近の自分の悪い傾向を思い出し、緊張した。苗字が覚えられないのだ。ひとりふたりならいいが、数人いっぺんだと頭が混乱する。きっと間違えるぞと心の中で思っていると、十中八九、「中井さん」を「中田さん」と言ってしまったりする。これが一度や二度ではない。
さて困った。このクルーは、泊まりもあるし、ロケは1日中一緒にいる。いつも会うメンバーなのに、名前を間違えたり、忘れたら失礼にもなる。
考えた末、下の名前で呼ぶことにした。
するとあら不思議。すぐ覚えられるし、絶対間違えないことに気づいた。
田中や中村といった苗字に、特別な意味を見出すのは難しいが、下の名前には必ずそれぞれ意味があって個性が宿っている。この名前は、ご両親がどんな願いを込めてつけたんだろうと想像すると、その人自身にも興味がつのる。名前の話をすると「僕の兄弟はみな父からこの一字をもらってるんですよ」とか、「読み方がわからないとよく言われる」などエピソードを聞けたりして、印象深くもなる。
漢字の意味とその人のイメージはけっこう重なるものだ。「かな」の「か」の字は「香」の「か」。春先の花のような笑顔の愛らしい彼女には、なるほど香という字が似合うなあなどと思いながら呼ぶと、すんなり名前が脳内に定着する。
そんなわけで、苗字を忘れる私は、新しい仲間を、「◯◯子さん」と、下の名前を呼ぶようになった。すると、間違えない以外にもいろんな効用があることに気づいた。
まず、心の距離がぐっと近くなれる。最初はちょっと驚かれるが、そう呼ぶのが普通になると、その場の雰囲気が和気藹々となごむ。気づいたら、それまでA子さんを苗字で呼んでいた編集者まで、 A子さんと名前で呼び出していたなんてことも。みんながそうなると、さらに空気が丸くなる。世代もキャリアも肩書きも飛び越えて、等身大で繋がり合えそうな親しみやすさが、名前呼びにはある。
大人になると、名前で呼ばれることが激減するので、私自身も名前で呼ばれるとなんだかキュンとするし、ちょっぴり嬉しくなる。
苗字は忘れることがあっても、その人の親が願いを込めてつけてくれた名前は覚えておく。そう決めてから、初顔合わせが怖くなくなった。苗字忘れ病から生まれた思わぬ巧妙である。
文筆家 大平一枝
長野県生まれ。編集プロダクションを経て、1995年ライターとして独立。大量生産・大量消費の社会からこぼれ落ちるもの・こと・価値観をテーマに、女性誌、書籍を中心に各紙に執筆。『天然生活』『dancyu』『Discover Japan』『東京人』等。近著に『届かなかった手紙』(KADOKAWA )、『男と女の台所』(平凡社)、『あの人の宝物』『紙さまの話』『信州おばあちゃんのおいしいお茶うけ』(誠文堂新光社)などがある。プライベートでは長男(21歳)と長女(17歳)の、ふたりの子を持つ母。
▼大平さんの週末エッセイvol.1
「新米母は各駅停車で、だんだん本物の母になっていく。」
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