【57577の宝箱】心臓の鍵開けている 振動が指に伝わる走り出す今

文筆家 土門蘭


先週末、初めての車が我が家に届いた。

この連載でもこれまでに「車を買う」と決めたことや、ペーパードライバー教習に地道に通っていることを書いてきたけれど、ついに納車だ。

納車の前の日は、自動車屋さんからうちまで乗って帰ることすら心配で、『ペーパードライバーのための虎の巻』とタイトルに掲げた本を熱心に読み耽ったほど。夜中には、アクセルとブレーキを間違えて踏んで大いに焦る夢を見た。緊張と不安でいっぱいになりながら目覚めた朝、うちにある神棚に手を合わせ、まずは今日ここまで無事に帰って来られるようにお願いする。

自動車屋さんに行く前に、近所で借りた駐車場をひとりで見に行った。まだ空っぽの駐車場。ここに今日、私の車が停まるだなんていまだに信じられない。
そう思うと、周りに停まっている車のひとつひとつが特別なもののように見えてくる。今まで当たり前の風景のように感じていたけれど、これらの持ち主たちも初めて車を買う時、私と同じように「信じられない」などと思ったのだろうか。

§

家族で自動車屋さんに行くと、店に入ってすぐ、私の車が目に入った。
真っ白い外装、紺色のシート、赤いエンブレム。ナンバープレートには、自分で熟考して選んだ四桁の数字が並んでいる。
その横には、私の名前が書かれた小さな看板。「Congratulations」という言葉とともに。

「すごい!」
私は思わず声をあげた。胸がドキドキする。
小走りで近寄り、車の外を一周して眺め回す。触ったら指紋がついてしまうなと思いつつ、触りたくてたまらなくなり、営業さんに「触ってもいいですか?」と質問した。どうぞどうぞ、と言われて、私はドアノブを引く。ガチャ、と低く重たい音。まだビニルが張られている内装を見て、新車特有の匂いを嗅ぎ、ゆっくり確実にドアを閉める。バタン、とまた低く重たい音。
「すごい……」
今度は小さくそうつぶやいた。これが、本当に私のものだなんて。

とても嬉しい反面、急に不安になった。もしかしたら私は大変なことをしでかしてしまったのではないか?と気後れする。
だって、自分が車を買うだなんて、想像したこともなかった。実家にもなかったし、ペーパードライバーだし、今の今まで車のない生活をしてきたのだ。それで事足りていたのに、つい「あったら楽しそう」だなんて夢見てしまって、本気になって貯金したり運転の練習をしたりして、ここまで来てしまった。

夢を現実にしたことがようやく実感できた途端、尻込みしてしまう。まるで、夢中でよじ登った樹が想像よりも高くて、幹にしがみついて降りられなくなっている猫みたいだ。

「すごいね、お母さん!」
その時、長男が大きな声で私に呼びかけた。次男も「すごい!」と目を輝かせている。
「めちゃくちゃかっこいいやん、早く乗りたい!」
「かっこいい、のりたい!」
そう言って、二人して真新しい車をベタベタ遠慮なく触る。まるで気後れしていない、満面の笑みの子供たちを見ていると、急に肩の力が抜けるようだった。
めちゃくちゃかっこいい。めちゃくちゃ嬉しい。そうか、それでいいんだ。不安になることなんてないんだな。

私はもう一度、運転席側のドアを開ける。そして小さな声で、
「どうぞよろしくね」
と、私の車に声をかけた。

§

もろもろの手続きを終え、営業さんに操縦方法を教えてもらった。これが終わったら、自分で操縦して家まで帰らないといけない。時間は午後5時半。家まで車で15分ほどの距離ではあるのだが、薄暗くなってきたので気を引き締めて運転しないと、と緊張する。

車に乗り込み、シートベルトを締め、ブレーキペダルを踏みながらエンジンをかけた。
ブルン、と揺れる車に、みんなで「おおー」と歓声をあげる。
「行くよ、走るよ」
私はアクセルをゆっくり踏んだ。スーッと走り出す車に、やっぱりみんなで「おおおー」と声をあげる。

「ありがとうございました!」
自動車屋さんのスタッフさんが総出で見送ってくださっているのが、窓の外に見える。返事をするのは夫や子供に任せ、私は集中して運転に臨んだ。ウインカーを出そうとして、間違えてワイパーのレバーを上げてしまう。慌てて止めようとしたが、逆にワイパーが早く動き始めた。落ち着け、落ち着け。一旦ブレーキを踏んで、ワイパーを止める。
「大丈夫、どうすればいいかわからなくなったら、一回停まればいいから」
同じくペーパードライバーの夫が少し不安そうに言った。スタッフさんもちょっと心配そうに笑っている。そんな笑顔に送られながら、私は無事公道に出た。

「すごい、本当に走ってる」
私が言うと、子供たちが
「お母さん、運転うまいやん!」「うんてん、じょうず!」
と褒めてくれた。
「いっぱい練習してたもんな」
と長男が言い、「そうやな」と答える。確かにそうだ。私はいっぱい練習した。いっぱい勉強もした。欲しいものを手に入れるために。もっと楽しく暮らすために。だから、大丈夫。

見慣れた大きな道をどんどん南下する。少し開けた窓から、秋の夕暮れの風が吹き込んできた。

ハンドルを握りながら、
「楽しいね」
と、私は言った。

 

“ 心臓の鍵開けている振動が指に伝わる走り出す今 ”

 

1985年広島生まれ。小説家。京都在住。小説、短歌、エッセイなどの文芸作品や、インタビュー記事を執筆する。著書に歌画集『100年後あなたもわたしもいない日に』、インタビュー集『経営者の孤独。』、小説『戦争と五人の女』がある。

 

1981年神奈川県生まれ。東京造形大学卒。千葉県在住。35歳の時、グラフィックデザイナーから写真家へ転身。日常や旅先で写真撮影をする傍ら、雑誌や広告などの撮影を行う。

 

私たちの日々には、どんな言葉が溢れているでしょう。美しい景色をそっとカメラにおさめるように。ハッとする言葉を手帳に書き留めるように。この連載で「大切な言葉」に出会えたら、それをスマホのスクリーンショットに残してみませんか。

 


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