【人生の迷いは無くならない】後編:書くこと、生活すること(吉本ばななさん・大平一枝さん対談)

文筆家 大平一枝

隔週金曜日にお届けしている大平一枝さんによるエッセイ『あ、それ忘れてました(汗)』が連載100回目となります。これを記念してゲストに小説家の吉本ばななさんをお招きし、歳を重ねることで見えてきたあれこれについて、二人でお話いただきました。こちらは後編です。

前編から読む

 

かつての自分

 対談は、越したばかりの拙宅で行われた。よく晴れた午後で、秋の終わりの澄んだ光が窓からさしこみ、ちゃぶ台リメイクテーブルに明るく反射していた。

 早く着いた吉本ばななさんは興味津々という表情で、本棚からドライフラワー、なんでもない籐(トウ)のゴミ箱などを眺めては「そかそっかー」とか「こんな飾り方もいいねー」と、秘書・井野さん(ばななさんの読者にはおなじみの通称いっちゃん)と話していた。挨拶をすると、開口一番こういった。
「神棚の感じとか素敵ですね。いいなあって癒やされました」。

 自分の家ながら、神棚は気に留めたこともなく、え、と見上げた。癒やされるものなんてあったろうかと。
 御札立ての下に、100円ショップで買ったかまぼこ板のような棚を画鋲で取りつけていた。そこにミニだるまやお守り、ミニチュアサイズのお神酒の器、榊立てを飾っている。──ああこれか、と小さく驚いた。ふだん、仕事の打ち合わせもあるので来客は少なくない。だが、この簡易な棚について言及されたのは初めてだった。
 そんなささやかな生活の景色を瞬時にすくいとる彼女に、聞いてみたいことがあった。
 書くことと生活すること、そのバランスと今目指している道についてだ。

「5年前に事務所を畳んで、背負うものが減り、仕事にも集中できるしだいぶ楽になったんですよ。子どもももう高校生ですし」

 ではお子さんが小さい頃はどうだったのだろう。私は、二児とも0歳から仕事に復帰していたので、書く仕事と育児は綱渡りの連続で24時間が破産していた。民間保育園やシッターさんの手を借りつつ、執筆の中心を朝4時〜8時と決めてからようやく日常のリズムができ、息を吹き返す思いだったのをきのうのことのように覚えている。

「筆名をひらがなにしていた12年のうち10年は育児のために作品数を絞っていました。でも、息子が生まれながらの夜型で、幼稚園は大変でした。私も夫も完全に夜型なので、あのときはもう本当に家族全員でしのいだっていう感じ! 出産前は、私も赤ちゃんは夜9時には寝るもの、そのあと書こうって思っていたらぜんぜん様子が違って。毎晩9時過ぎにテンションマックスになっちゃうの」

 また、事務所スタッフを抱えての仕事は、「お給料を払うために自転車操業で、必ずしも執筆だけに集中できる環境ではなかった」とのこと。

 前編で、「外食もするので、常備菜作りは自分にあっていない」という話があった。彼女の書く小説と、私の仕事の領域は全く違うが、よれよれでどうにもならないとき、下北沢のおいしい店にどれほど助けられたかわからないことだけは同じようだ。

 そこからしばらく、近所の旨い店についての話が止まらなくなった。互いに勧め合う“いい店”のキーワードに、びっくりするほど「おしゃれ」がない。おいしくて、子どもも大人も家族全員で楽しめて、そんなに高くなく、気楽というのが共通項だった。

「育児も一段落した2015年、よし仕事にバリバリ集中するぞという決意も新たに、筆名の名字を漢字に戻しましたが、じつは2年前、下北沢に義父に住んでもらって介護を手伝っていたんです。まあ、介護というほどたいしたことではなくて、毎晩ご飯を作って届けてただけなんだけど。その時、ご飯を作るって大変な仕事だよなとしみじみ実感しましたね。だってご飯って、料理するだけじゃないから」

 ふと、『下北沢について』※1の「生きていれば必ず服は汚れて、洗濯物が出る」という一文で始まるエッセイを思い出した。動き回ればほこりが立ち、なにか食べれば必ずごみや汚れたコップや皿が出る、と綴られていた。そう、ご飯を作るという行為には、献立を考え、冷蔵庫の中身を管理し、いろんな道具や器が汚れては洗い、それらを片付けるところまでが含まれる。ご飯というひとことに収められている日々の細かな営みや手数はたしかに多い。そうだよな、毎日ご飯を作るってけっこう大変だよな……。
「おかげで私も毎晩8時には自分の作ったものを食べることができた。もちろん買って届けることもあったけど。そういうリズムでご飯を作って過ごしたという意味でも、介護は貴重な経験でした」

 両親や友人、動物たちの看取りのうえに介護まで。その間に世界中で版を重ねる小説を発表し続けている。淡々と語るが、一歩引いた目で見ると、出産から今日までの日々はなかなかにハードだ──。

 

自らが達したい場所

 今月発売される新作※2の短編小説集について、視線をまっすぐこちらに向け、「60歳までにここまで行きたいという自分で設定した高いレベルに達したものがようやく書けました」と語った。
“ようやく”とは、大学の卒業制作として執筆し泉鏡花文学賞を受賞した『ムーンライト・シャドウ』※3以来重ねてきた35年という歳月を指している。

『ムーンライト・シャドウ』が22歳。
『デッドエンドの思い出』※4を書いたのは39歳で妊娠中だった。本書のあとがきにはこう綴られている。

 私はばかみたいで、この小説集に関しては泣かずにゲラを見ることができなかったのですが、その涙は心の奥底のつらさをちょっと消してくれた気がします。皆様にもそうでありますよう、祈ります。
 さらにばかみたいだけれど、私はこの中の「デッドエンドの思い出」という小説が、これまでに書いた自分の作品の中で、いちばん好きです。これが書けたので、小説家になってよかったと思いました。

 この作品は引退の覚悟を抱きながら執筆したと言うので、私は仰天した。
「40歳での出産を前にしていたので、どれほど大変か見当がつかず、産んだらもう書けないかもしれないと思いました。半ば引退する気持ちもありました。だから最後はもうやめてもいいと思えるくらい悔いのない作品にしようと。そうしてできたのが『デッドエンドの思い出』です」

 それから再び自分の目標に達したものを書ききることができたと語るまでに18年かかったとするならば、小説家の道程とはなんと果てしないことか。水準を設けるのは自分、それと戦うのも自分。じつに孤独な生業(なりわい)だ。
 
 翻って、やりきったといえる仕事を、私はどれだけしてきたろう。慣れからくる慢心はなかったか。これくらいでという甘い水準を掲げてはいなかったか。
 彼女と話し終えた今も自問自答を続けている。

 人生を一巡し、迷いながらも自分にフィットすることしないこと、もうそんなに持たなくていいもの、あらゆることにやわらかさを忘れてはいけないことが少しは見えてきた。そのうえで、さらに高みをめざして歩むには、おそらく“自分のため”では頑張りきれない。ばななさんの「嫌いな人類の中の、わずかに大好きな他者のために書いている」という言葉が、じわじわと私の内側に日ごとにしみこんでくる。

・・・

 自分のなかに答えを持っている人との対話は、気づきに満ち、自由でおおらかな時間が流れていた。
 帰り際、玄関の壁をまた見上げて彼女は言った。「こういうの、いいな」
 古道具の箕(み)を逆さにして、小さなポトスの鉢を飾っていた。「これから犬の散歩に行ってきます。ではまた〜」。後ろ姿が、夕方になり始めのやわらかで丸い光に包まれていた。


※1『下北沢について』幻冬舎文庫
※2『ミトンとふびん』新潮社
※3『キッチン』角川文庫に所収
※4『デッドエンドの思い出』文春文庫

【写真】鍵岡龍門
【撮影場所】大平邸

 

お二人の新しい本が出版されます

吉本ばななさん新刊
『ミトンとふびん』新潮社

愛は戦いじゃないよ。愛は奪うものでもない。そこにあるものだよ。たいせつなひとの死、癒えることのない喪失を抱えて、生きていく――。凍てつくヘルシンキの街で、歴史の重みをたたえた石畳のローマで、南国の緑濃く甘い風吹く台北で。今日もこうしてまわりつづける地球の上でめぐりゆく出会いと、ちいさな光に照らされた人生のよろこびにあたたかく包まれる全6編からなる短篇集。

 
大平一枝さん新刊
『ただしい暮らし、なんてなかった。』平凡社

50代を迎えたいま考える、暮らしのあれこれ。家事のルーティン、モノの持ちかた・手放しかた、人付き合い、自分養生。かつてのわたし、いまのわたし。たくさんのトライアンドエラーを経てたどりついた、大平さんの心安らぐ暮らしの現在地とは。本連載の一部も所収されているエッセイ集です。
「みんな、生きている途中だ。自分にフィットする暮らしのありようを求めて石のようにどんどん転がっていけばいいと思う。変わることをとめずに。」(本書より)

 

もくじ

前編(12月16日)
同じ街で、同じ時期に子育てをしながら(吉本ばななさん・大平一枝さん対談)

後編 (12月17日)
書くこと、生活すること(吉本ばななさん・大平一枝さん対談)

 

吉本ばなな

1964年、東京生まれ。日本大学藝術学部文芸学科卒業。87年『キッチン』で第6回海燕新人文学賞を受賞しデビュー。88年『ムーンライト・シャドウ』で第16回泉鏡花文学賞、89年『キッチン』『うたかた/サンクチュアリ』で第39回芸術選奨文部大臣新人賞、同年『TUGUMI』で第2回山本周五郎賞、95年『アムリタ』で第5回紫式部文学賞、2000年『不倫と南米』で第10回ドゥマゴ文学賞(安野光雅・選)を受賞。著作は30か国以上で翻訳出版されており、イタリアで93年スカンノ賞、96年フェンディッシメ文学賞<Under35>、99年マスケラダルジェント賞、2011年カプリ賞を受賞している。最新刊『ミトンとふびん』が12月22日に発売予定。noteにて配信中のメルマガ「どくだみちゃんとふしばな」をまとめた文庫本も発売中。
(撮影 Fumiya Sawa)

 

大平一枝

1964年長野県生まれ。編集プロダクションを経て1995年独立。著書に『東京の台所』『男と女の台所』『もう、ビニール傘は買わない。』(平凡社)、『届かなかった手紙』(角川書店)、『あの人の宝物』(誠文堂新光社)、『新米母は各駅停車でだんだん本物の母になっていく』(大和書房)ほか。『ただしい暮らし、なんてなかった。』(平凡社)12月3日発売。一男(26歳)一女(22歳)の母。 
https://kurashi-no-gara.com

 
当店で連載中のエッセイ
『あ、それ忘れてました(汗)』を読む

 


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