【月と太陽がくれたカレンダー】第5話:立春の朝に若水をいただく
ほっと落ち着いて過ごしたい夜や、暦の節目の日などに、しぜんと手が伸びる愛用の器があります。
少しごつごつとした手触りで、白い釉薬のかかった大ぶりな陶器なのですが、両手で持つと、円筒の形が手のひらにちょうどぴったり合います。
冷えたビールを注いだときにはひんやりと、あたたかなお茶をいれたときにはあつあつになって、なんだか器のなかの飲みものを、じかに手のひらで包んでいるような感じがしてきます。
それなりに長く使ってきたので(十七、八年くらい)、真っ白というわけでもなく、茶渋がついたり、くすんで灰色がかったところがあったり、ところどころ少し欠けたりしています。
そんなふうにだんだん古びてくるのも、ともに過ごしてきた時の積み重ねだと思えばうれしいもので、なおさら愛着が湧いてきます。
この白い器が、年に一度、立春の朝の白湯を飲むときの器になってくれています。
毎年これでと、とくに決めているわけでもないのですが、その日の朝を迎えると、食器棚にならんだ湯呑みやコップの中から、すとんとした円筒形の白陶に手が伸びてしまいます。
まだ人の気配がしはじめる前の、立春の早朝。
だんだんと明るさが増してくる朝ぼらけの光が、やわらかく部屋を包みます。窓の向こうから、ヂッ、ヂチチッとひかえめな声音の鳥の地鳴きが聴こえます。
やかんの口から湯気が立つまで、しばらくの間、まだ初春になりたての寒さを感じつつ、それでも、しんと静まった心持ちで白湯が沸くのを待っています。
一年でもっとも夜の長い冬至から、しだいに日がのびてきて、二十四節気の季節も小寒から大寒へ、そして二月初めに立春に至り、新しい春を迎えます(今年の立春は、二月三日です)。
旧暦では、また新たな春夏秋冬の一年がはじまる立春が訪れることを、立春正月といいます。
いまの暮らしでは、立春より、立春の前日にあたる節分のほうがなじみ深いかもしれませんが、やっぱり立春も大きな節目に違いありません。
さて、そんな立春の朝には、年の初めということで、暮らしになくてはならない水の恵みに感謝するならわしがあります。
昔は、朝早く、日の出前の午前三時ごろ(寅の刻)に、その年の恵方にある泉や井戸へ水汲みに行ったそうです。
それが、一年の最初にいただく水、若水です。
いまは生活スタイルが昔と変わっていますから、必ずしも泉や井戸へ汲みに行かずとも、水道の水や市販の水でもいいと思います。大切なのは、水を大事に思う気持ちを新たにすることですから。
若水でお茶を淹れ、梅干しや結び昆布、山椒などを入れる、福茶というお茶もあります。
新しい一年が健康でありますように、福がやってきますようにと願いを込めていただくのですが、私自身は、ただ水を沸かして白湯でいただくのが好きです。
ふんわりと湯気がのぼっているところに「いただきます」と手を合わせて、それからふうふうと息を吹きかけて冷ましながら、ひと口、ふた口すると、体がほっとあたたまります。
どうしてか、いつの頃からか、白湯が好きになってしまいました。
立春だから白湯を大切に飲んでいるのか、白湯を大切に味わいたいから、立春の朝を特別なひとときとして過ごしているのか、我ながらよくわからないところがあります。
名水を取りよせたり、鉄瓶で沸かしたりしたら、きっともっとおいしいのだろうなとも思うのですが、いつもの赤い琺瑯のやかんに、いつもの水を注いで沸かし、しゅんしゅんいったら、できあがりです。
思うのですが、こういう節目の日(いわゆるハレの日)のならわしというのは、普段の暮らし(いわゆるケの暮らし)の何気ない営みを、あらためて感じ直したり、より心から楽しめるようになるための、きっかけなのかもしれません。
立春の朝においしく感じられた白湯は、いつの日も、しみじみおいしく感じられるのではないでしょうか。
いまもふと思い立って、やかんに白湯を沸かしてみました。いくぶん古びた愛用の白い器に注いでみると、やっぱりほっとおいしくて。ついでに、甘いものも、ちょっとおやつにいただいて。
なんだか時間がゆったり流れている感じがします。ああ、こんなに小さな大切な幸せ。
文/白井明大
詩人。1970年東京生まれ。2008年より、二十四節気七十二候に沿って季節の移ろいを感じる「歌こころカレンダー」を毎年制作。2012年、『日本の七十二候を楽しむ ─旧暦のある暮らし─』が静かな旧暦ブームを呼んで30万部超のベストセラーに。2016年、『生きようと生きるほうへ』で第25回丸山豊記念現代詩賞を受賞。『いまきみがきみであることを』『日本の憲法 最初の話』など、自然や生命や心の自由に関わる著書多数。
イラスト/shunshun
素描家。1978年高知生まれ、東京育ち。広島在住。心に響いた光景を、ブルーブラックのペン一本から生まれる線により、一つひとつ精魂を込めて描く。毎年自主制作している『二十四節気暦』カレンダーのファンは多い。著書に『椿ノ恋文画集』『一條線一片海』など。
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