【新連載|ひとはパンのみにて】第一回:パンで生まれる交易路
みなさんこんにちは。安達茉莉子と申します。自他ともに認めるお買い物好きの私ですが、このたび買い物にまつわるエッセイの連載が始まることになりました。私は買い物とは、「出合うこと」だと思っています。みなさんの日々に、良き出合いがありますように。
第一回 パンで生まれる交易路
お買い物と私
私は買い物が好きだ。買って楽しいものは、高価だったり、特別なものだけじゃない。
たとえば、なんでもない一杯のテイクアウトのコーヒー。
ある晴れた冬の日に友人と都内の公園で待ち合わせた。公園脇にコーヒースタンドを見つけて、一杯のコーヒーを買う。バリスタから受け取ったカップを手に持ち、話しながら歩くうちに少しずつ冷めていく。適温よりも少し熱いくらいになったコーヒーを、喉の中にぐっと流す。ほろ苦く甘い香りが鼻を抜けていく。もう一口飲む。目がさめて、不思議と公園の緑の匂いまでよくわかるような気がする。買ったのはたった一杯のコーヒーだけど、あきらかにそれよりも多くのものを、もらっている。
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「ひとはパンのみにて生くるにあらず」
イエスは、サタンに向かってそう語ったと記される。(マタイの福音書第4章4節)
人は、生活必需品だけで生きていけるわけではない。私はこの言葉が好きで、折にふれて思い出す。聖書では神の言葉が必要であると続くが、一旦ここでは、「パンのみにて」という時の「パン」を、「一見生活必需品だけど、それ以上になる可能性のあるもの」として考えてみたい。
ひとつのパンが、腹ではなく心を満たし、精神を超えて、存在丸ごと潤わせてくれることがある。花束、コーヒー、服、なんでもいい。ただのものだけど、何か新鮮なきもちをもたらしてくれる。そういうものを探し、出合い、熟考か衝動を経て、自分の中に招き入れる。買い物とは出合いにいくことであり、自分の暮らしに喜びを取り入れていく行為でもある。
私が普段行っているお買い物の楽しみについて。まずはやっぱり、パンの話から始めてみよう。
街とパン
朝ごはんはほとんどいつもパンを食べている。パン、卵、野菜、温かい飲み物。
それはずっと変わらないが、登場するパンが昨年の夏、大きく変わった。住む街とともに。
昨年6月、3年住んだ横浜を離れ、鎌倉に引っ越した。内見に行ったとき、近くにパン屋があるのに目が留まった。ヨーロッパの小さな街にそのままありそうな佇まい。ガラス窓の向こうには、美味しそうな食パンや、伝統的な丸いライ麦パンが整然と並んでいる。美味しい店特有の、匂い立つような「良い雰囲気」がある。
その店を見たときに、新居はここに決まるのかもしれないと心のどこかでわかっていたと思う。きっと、ここに住むことになる。そして数ヶ月後、実際に私は日常的にそのパン屋に、朝食のパンを買いに通うことになった。
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鎌倉といえば一大観光地。だけど、住んでみると、暮らす場所としての鎌倉が見えてくる。不思議と、二十代の終わりに一年間大学院生として住んでいた、イギリス南部の街ブライトンにどこか似ていた。
かつては漁師町であったブライトンは、細くうねった路地が多い。やろうと思えば端から端まで徒歩で歩けるくらいのこぢんまりとした中心市街地は賑わっていて、個人の小さな店が至る所にある。石畳の坂をゆっくりと下ると、道の端にあるデリ(惣菜屋)、海と平行に走る大通りにある花屋、路地にあるコーヒーショップ、古い街並みの中にある手作りのパン屋。スーパーマーケットは、大型チェーンもあれば、オーガニック食材を集めたローカルな店もある。
街に出ると、いつもワクワクしていた。自分が欲しい商品はどこに売られていて、どこで買うのが一番良いか。アタリをつけて、道を覚え、コットンのエコバッグを肩から下げて、そうした店を巡り、日常の買い物をする。それは、街を知り、街の雰囲気と味わいを覚え、ひとつひとつ自分の身に染み渡らせていくことだった。
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鎌倉にもまた、個人店やおもしろいお店が点在する。鎌倉や三浦半島、湘南地域の地元野菜を売る八百屋に、朝から賑わう「レンバイ」と呼ばれる鎌倉市農協連即売所。鮮魚が並ぶローカルスーパー。季節の食材を使った鎌倉在住の料理家のお弁当を予約して受け取りにいったり、コーヒー豆はどこのものが好みだろうと探してみたり。新しく店ができたと聞けば足を運び、製麺所の敷地で行われるマーケットに並び、自分なりの鎌倉お買い物マップができていく。鎌倉に住む人たちと会うと、共通の話題はもっぱら食と店の話だ。
食を通じて満たされるのは、食欲だけではない。知的好奇心に、知識欲、美意識。世界にはこんなに美味しいものがあるのか。食べたことのないもの、見たことのないもの。買って帰り、自分の口で味わう。そして調理法を探求する。未知のものに出合う感覚は、実際の栄養以上に、私を生かす。
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私が鎌倉に引っ越すことになると予感した、ドイツパン専門店の老舗「Bergfeld(ベルグフェルド)」。鎌倉市内に3店舗あるが、行くと、どのパンにするか毎回真剣に悩む。定番のトースト、小麦胚芽たっぷりの香ばしいパン、あるいは両手に乗せても余るような大きな丸パン。ここはレーズンパンもたまらない。
さてどれにしよう。精神を統一し、全集中で選びたいが、次のお客さんも待っている。時に額に汗をかくほど悩んで、結局いつものトーストにする。皮や耳の部分はザクザクバリバリ、中はムチムチモチモチ。小麦の香りに満たされる。どれだけ食べても飽きがこないのに毎回喜びがある。定番が強いって、強い。
悩むのは種類だけではない。どんな厚さにスライスしてもらうか毎回悩む。お店の人も慣れたもので、ミリ単位の提案をしてくれる。サンドイッチにも使える薄さ、通常の6枚切りの厚さ、それよりも少しだけ厚い5枚切りくらいの厚さ、毎回悩むが、どのみち正解しかないので贅沢な悩みだ。
笑顔で紙袋に入ったパンを渡される。パンを受け取って店を出ると、ふう、と爽快感さえ覚える。ブライトンから持ち帰ったくたくたのコットンバッグにパンの紙袋を入れて、すぐ家に戻ることもあれば、鎌倉市街地の中心の方に歩いていくこともある。
パンの旅はパンだけで完結しない。何を合わせようか。いつものスーパーに面白いジャムはないだろうか。バターは今回も無塩にするか、有塩にするか。クリームチーズの方が合うだろうか。レンバイの一角にあるデリ「DAILY by LONG TRACK FOODS」のミルクバターペーストを買いに行こうか。それとも、ベーコンやアボカド、卵を乗せて、しょっぱい系のトーストにしようか。うん。全部、やっちゃえば、良いんじゃないか。
食べたいものを求めて街を巡る。自分が食べたいものはどこに売られていて、どこで買うと気分が良いか。たどりながら、私はこの街を知ろうとしている。パンひとつとっても、そこには私だけの小さな交易路が生まれるのだ。
東京外国語大学英語専攻卒業、防衛省勤務、篠山の限界集落での生活、イギリスの大学院留学などを経て、言葉と絵を用いた作品の制作・発表を始める。『私の生活改善運動 THIS IS MY LIFE』(三輪舎)、『毛布 – あなたをくるんでくれるもの』(玄光社)、『世界に放りこまれた』(ignition gallery)などの著書がある。
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