
人生の折り返し地点を過ぎ、これから先どう生きていったらいいのかな、とふと考えることが増えました。
自分らしく、おしゃれでいきいきしている先輩にお会いして、そのヒントを得られれば……。そこで、セレクトショップ「Pili」のディレクションなどを務め、インスタグラムでの毎日のファッション投稿なども人気の、服飾ディレクター・岡本敬子(おかもと・けいこ)さんに、お話を伺いました。

前編では、仕事を楽しみ尽くした20代、気になる結婚、パリ遊学などについてお聞きします。
小さな頃から、ずっと洋服が好きでした。

公務員の父と専業主婦の母のもと、東京で生まれ育った岡本さん。子ども時代は、お母様お手製の服を着ていたのだとか。
岡本さん:
「小学校に上がったくらいからは、手芸用品の並ぶ店に連れて行かれ、生地からボタンから『自分で好きなものを選びなさい』と。ちょっと面倒くさかったですけれど、できあがると気に入って着ていましたね。花柄のパフスリーブのブラウスなど、今でもよく覚えています」
中学、高校時代は、母の手づくり服を離れ、流行りの服をどんどん取り入れるように。とにかくファッションが大好きで、高校卒業後は、服飾の専門学校へ進学します。

岡本さん:
「3歳のときからずっとピアノを習っていたので、両親も高校の先生も音大に進むと思っていたようですが、音楽を職業にするという考えがなく。
当時、すでにスタイリングに興味があったので、文化服装学院に行きたいと言ったら、母親はがっかりしたようです。数日、口もきいてくれなくなってしまいました(笑)。
パターンを作る、縫い物、編み物、ヘアメイクなど、宿題は多岐にわたって大変でしたが、同級生は、珍獣だらけでおもしろかったですよ。サーファーもいればパンクもいたし、私はヴィンテージやピンクハウス、ギャルソンなど旬のファッションを楽しんでいました」
苦労も苦じゃなかった、20代の修行時代。

ファッションにどっぷり浸かった2年間を過ごし、この道しかないと心に決めた岡本さん。
卒業後はスタイリストやカメラマンを擁するスタジオに入社し、百貨店のカタログなどの仕事をしていましたが、やはりもっとファッションに特化したいと、知人の紹介で大手アパレル企業に転職、プレスの仕事に就きました。
岡本さんが担当していたのは、80年代に大ブームとなったブランド「VIVAYOU(ビバユー)」です。
岡本さん:
「小泉今日子さんが着てくれたことで大ブレイクしたんです。テレビ局まで衣装を持って行ったり、ご本人がフィッティングに来られないときは背格好が少し似ていたので代わりに試着したり。
最年少なので雑用も多いし、コレクションのときなど徹夜で準備して、体はきつかったけれど、苦労とは思わなかった。先輩たちにたくさん教わり、好きな服に囲まれて、楽しいことのほうが多かったです」
25歳、結婚はものの弾み!?

ファッション三昧の日々を送るなか、のちに夫となる編集者の岡本仁さんと知り合います。
岡本さん:
「彼は当時ファッション誌の編集をしていて、私がプレスを務めるブランドの広告記事を担当したんです。商品の貸し出しや撮影の立ち会いなどで顔を合わせていたんですけれど、編集が大好きということが伝わってきて、もうほんとに、ザ・編集者という感じでした。
お弁当とかおやつもすごくおいしいものを選んで持ってきてくれて。選ぶものひとつひとつ、どれもセンスの良さを感じました。
あるとき共通の知人を介して食事に誘われたものの、いつまでもセッティングされないなと思っていたら、会社に電話がかかってきまして。携帯電話がなかったですからね。そこから食事に行ったりするようになりました。
9歳年上なので落ち着いていて、一緒にいて心地よかったんです。
じつは私のタイプではなかったけれど(笑)、とにかくセンスがいいなと思っていました」
▲著書『私のふたり暮らし』にはなれそめから夫婦の今まで、書かれている。
出会って半年くらい経った頃、「付き合って、その先どうしたいですか?」と仁さんに聞いたそう。
岡本さん:
「ぽろっと出ちゃったんですよね。結婚願望もなかったので、なぜその言葉が出てきたのか、自分でも不思議でした。相手は一瞬の間ののち『結婚ですかね』って。
結婚という言葉に、お互いびっくりしたんですけれど、それから1年弱で結婚しました。25歳のときです。今でも『なんで結婚したんだろう、弾みかね』と二人で話しています(笑)」
鎌倉での暮らしで、価値観が変わりました。

結婚して1年半が経ったところで、夫の希望もあり、東京から鎌倉に引っ越しました。それを機に、いったん仕事はお休みすることに。
岡本さん:
「鎌倉から通うのは大変でしたし、ずっと忙しく働いてきて、少し落ち着きたいという気持ちもあったように思います。
鎌倉に住んでいる友人もけっこういたので、毎日、誰かしらと会っていて、けっこう忙しかったですね。
鎌倉では3回引っ越しをしていて、最初の家は海に近い古い一軒家でした。東京からも海外からも、ひっきりなしに人が泊まりにきていたので、料理を作ったり、ずいぶんおもてなしもしました」
鎌倉で暮らしたことは、ファッション観にも大きく影響し、今につながっていると言います。
岡本さん:
「あの陽気なので、東京で着ていたものが全くそぐわない。おしゃれな革のアイテムはすぐカビてしまうし、ワビサビじゃなくて "カビサビ" だ!って。
そこから天然素材のシルクやコットンのような、着心地のいい良いものを選ぶようになりました」
半年ですが、パリで暮らした経験も大きかったです。

この時期、同じくらい人生観、ファッション観に影響を与えたのは、パリへの遊学でした。
岡本さん:
「仕事でフランスに出張した際、靴を買いに行ったのですが、フランス語ができないからほしいサイズが買えなかったんです。
悔しいなと思って、東京でフランス語を習ったりしていました。
それで、働いていた頃の貯金で、半年ほど憧れのパリに行くことに。29歳のときです。留学ではなく、ただ暮らすだけですけれどね。
最初は『何言ってるのかわからない』と冷たくされたパン屋さんにも、めげずに通ううちに、すごくよくしてくれるようになったり、素敵なブティックでもフランス語でやりとりしてほしいものを買えるようになったり。
当時は電車の切符は窓口で買わないといけなかったのですが、ちゃんと行き先が通じて、自力で行きたいところへも行けるようになりました」

岡本さん:
「パリ時代はカフェで街ゆく人たちを見ているだけでワクワクしましたね。
みんなシンプルで派手なものは着ておらず、おかあさんやおばあちゃんから譲り受けたアイテムを組み合わせていて、気負わないおしゃれを学んだ気がします。
あとはカラーを取り入れるのが上手だな、って。モノトーンの服に赤い靴を合わせるなど、差し色の使い方は影響を受けました。
エリアによっても、けっこうファッションが違ったんですよ。6区はコンサバな感じだけれど、レ・アルは原宿みたいな感じだから若い子たちが流行りのものを身につけていたり。アフリカ人街では、アフリカの布をまとった人たちがすごく素敵でした」

半年間のパリ遊学を経て、自信がついたとも。
岡本さん:
「完璧じゃないけれど、生活できるくらいのフランス語ができるようになったことで、コミュニケーションも広がりました。
やっぱりみんな人間だから、伝えたいという気持ちさえあれば応えてくれるというか、人間として付き合える。気負わずに、誰とでも伝えたいことがあれば 伝えられる自分になったという感じがします」
親の反対を押し切ってファッションの道に進み、楽しくも忙しい鎌倉での専業主婦を経て、30代前半で仕事に復帰。続く後編では、仕事に邁進した30代以降、そして今後についてもじっくりお聞きします。
(つづく)
【写真】相馬ミナ(2枚目を除く)
もくじ
第1話(12月22日)
親の期待とはちがうファッションの道へ。結婚、引っ越し、20〜30代の転機を振り返って。
第2話(12月23日)
挨拶をする、感謝を伝える、嘘はつかない。基本的なことを大事にしていれば、大丈夫!
岡本 敬子
服飾ディレクター。1963年生まれ。文化服装学院スタイリスト科卒業。様々なブランドのPRをはじめとしたファッション業界で活躍。2016年からnanadecorにて、自身の名前を冠した企画〈KO by nanadecor〉を展開。2017年から千駄ヶ谷にあるセレクトショップ〈Pili〉のディレクションも手掛ける。座右の銘は「SUN&FUN」。好きな季節は夏。ニックネームはカミさん。
Instagram: @kamisan_sun
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