一田さんのお引越し
【一田さんのお引越し】後編:「自分で」を手放し、だれかに頼る。まあいっか、と楽しめるようになってきました

【一田さんのお引越し】後編:「自分で」を手放し、だれかに頼る。まあいっか、と楽しめるようになってきました

東京から山梨へ。お引越しをした編集者・文筆家の一田憲子(いちだ・のりこ)さんを訪ねています。前編では、未来のために「もっと」と獲得し続ける毎日から、「いま」を味わう暮らしに変化した引っ越しの経緯を伺いました。

前編をよむ

後編では、一田さんお手製の食卓を囲みながら、毎日をどんなふうに過ごしているのかをお聞きしました。ここへ来て新しく変わったこともあれば、やっぱり変わらないこともあったようです。


ちいさな実験をくり返して生まれる、自分だけの暮らし

「お昼の用意をしますから、食べていってくださいね」と、一田さんがキッチンに立ち始めました。

ここに暮らしはじめて、まだ3カ月とは思えない、使いやすそうに整えられたキッチン。ここには手を加えず、入居時のまま使っているのだそうで、いまは少しずつ仲良くなっているところのよう。

一田さん:
「スポンジはどうやって置いたら乾きやすいだろうとか、生ゴミを捨てられる回数が少ないので、処理用の乾燥機を試してみようとか。洗剤も、浄化槽のために生分解の早い自然派洗剤に変えました。こっちがいいかな、あっちがいいかなと試行錯誤しながら、毎日実験のように試しているところです」

▲(写真左)シンクの横にタオルバーを取りつけ、スポンジやたわしの定位置に。右奥のほうろうは、調理中に出た乾燥機に入れられないゴミの一時置き場。/(写真右)引越しの際、ゴミ箱裏の汚れが気になったのをきっかけに、新居ではキャスター付きの板に乗せてスイスイ動かせるように。

一田さん:
「東京だと、買い物を一カ所で済ませられるのが普通でした。

でもここでは、こっちの直売所にはナスとトマトはあるけど葉物がないからあっちの直売所に寄って、という感じでいくつか回り、さらに日用品は別のお店で……とハシゴするんです。時間はかかるけれど、それが楽しいんですよね。野菜もおいしいし、山梨はくだものがお手頃に買えるので、つい買い過ぎそうになります」


大切な朝の時間で変わったこと、変わらないこと

一田さんの一日は、散歩から始まります。毎朝5時ごろに目を覚ますと、そのまま散歩に出かけるのが日課です。

一田さん:
「夫と一緒に、この辺りをぐるっと歩くんです。30〜40分くらいかな。そのあと軽くストレッチや筋トレをして、書斎に入って少し仕事をします。ホームページに載せるブログを書いたり、メールをチェックしたり。

8時からは、NHKの朝ドラを見ながらお粥の朝ごはん。そのあとはまた書斎に戻り、そこからがメインの執筆時間です」

▲執筆中、ふと窓の向こうに目をやると野鳥がやってくることも。

なんとも充実の朝の過ごし方……! と、思うと同時に、おや?と、感じたことがありました。一田さん、この流れは東京にいたときと、ほとんど変わっていないのではないですか?

一田さん:
「そうなんです。朝の過ごし方はずっと一緒。でも、同じようで大きく変わったことがあります。

これまでは散歩は30分で切り上げて、その次はこれ、それからこれ、としっかりスケジュールが決まっていました。わたしにとって午前中は、集中して執筆できる『黄金の時間』。そこをいかに充実させられるか、そのために必死だったんです。

でも、ここでは朝起きたら緑がいっぱいで、窓を開けたら風が吹いてきて。わあ気持ちいいなあと、そのままちょっとぼんやりしたくなるし、散歩に出かけても、いいお天気だしもうちょっと歩いてみようと思えます」

▲新生姜の甘酢漬けや梅干しなど、常備菜や保存食作りも積極的に楽しむように。旬のいちじくにはちみつをかけて蒸篭で蒸したコンポートは、福田里香さんのレシピ。自家製豆乳ヨーグルトに添えてデザートに。

朝ごはんを終えたあとも、何気なく庭を眺めているうちに雑草の手入れをしてみたり、昨日買った野菜で何か一品仕込んだり、窓を拭いてみたり。気づけば、いままでは必死で守り抜かなくちゃと思ってきた『黄金の時間』を、なんでもない家仕事に使っていることが増えたのだといいます。

一田さん:
「あんなにも、午前中は絶対に原稿を書かなくちゃ!と、死守し続けてきたのに、『まあいっか。今じゃなくたって』と思える。いい意味でルーズに、寄り道を許せるようになりました。それが自分にとっての大きな変化です」

風の吹くまま、気の向くままに、いま目の前のことをやってみる。そのときの流れを受け入れて、楽しんでみる。自然いっぱいのゆったりとした環境が、気持ちや考え方もすこしゆるめてくれたのでしょうか。


「助けてください」と言える勇気

お話を聞くうちに、一田さんが「いまを味わう」と話していたことの一つひとつは、自分でやってみることでもあるのかも、と思えてきました。

それでも田舎暮らしはわからないことだらけ。はじめてのことに不安や心配を挙げればキリはありません。これまであちこちで、一田さんがご自身を「心配性」「びびりんぼ」なんて書かれているのを見てきましたが、その気持ち、いまはどうなりましたか?

一田さん:
「困ったら『助けて!』って言う、もうそれに尽きます。もともとは頼るのが苦手で、だから助けてもらうのもうまくできませんでした。わたし、こっそりプライドが高いんです(笑)。

いまは生活のあちこちが、もうお手上げ状態。わからないことの連続なんです。人を頼れるようになったというよりは、頼らざるを得なくなったという感じかもしれません」

一田さん:
「草刈りの道具も、何を買えばいいのかさっぱりわからないから、人を頼りました。そうしたら『草刈りのお手伝い、行きますよ!』って言ってくださる。そんな申し出、これまでなら『いやいや結構です!』って答えていたけれど、いまは素直にお願いできるようになりました」

ゴミの出し方、日用品を買うのに便利なスーパー、新鮮な野菜が揃う直売所。どんなにネットやAIで調べられる時代になったとしても、地元の人たちほど頼りになるものはありません。「わかる、できる」の先に、つながりや安心が生まれるのも、人を頼ってこそなのかもしれません。


先のことはわからないから

キッチンからいいにおいがしてきました。「さあお昼にしましょう」と一田さん。

お待ちかね、一田食堂のはじまりです。
今日の献立は、新鮮なズッキーニのカルパッチョに、旬のマスカットが入ったサラダ、なめらかなマッシュポテト。

そしてもう一品。せいろを開けた瞬間、わあ!と、みんなで歓声をあげたのは、ほかほかの手作りシュウマイです。

直売所ごとに違う野菜の品揃え、おいしいお肉が買えるスーパー。ここに引っ越してから、自分であちこち訪ねてみたり、知り合いに教えてもらったりしながら少しずつ、生活に引き寄せてきたこと。そして、一田さんが東京で積み重ねてきた時間。それらが合わさって、テーブルにずらりと並んでいます。

一田さん:
「こっちにきてから、お昼ごはんを夫と一緒に食べるようになったし、夜は音楽を聴きながらおしゃべりすることも増えました。テレビを置くのもやめたんです。なんだかここでは、そうするのがいいなと思うようになったんですよね。どうしてかなあ。

さあさあ、それより熱いうちに食べましょう! シュウマイはね、ホタテと椎茸を入れました。ちょっとごちそうバージョンです」



一田さんに、「これからやってみたいことや予定はありますか?」とお聞きすると、「うーん、特にないかなあ」と、意外な答えが返ってきました。

一田さん:
「あ、リビングに絵を飾ろうと思いながらまだできていないし、収納を整えたいところはまだまだたくさん。庭もほとんど手付かずだから、アプローチのような小径をつくりたいし……。でも、そのくらいかな。

先のことは、ぜんぜん決めていません。親の姿を見ていると、わたしもいつかは運転免許を返納する日が来るだろうし、病院だって近い方が便利なはず。もっと歳を重ねていけば、街に戻った方が便利で暮らしやすいのかもしれないな、とは思います。

きっと、いまが思い切れるタイミングだったんです。ここから15年か20年かは分からないけれど、しばらく『いま』を楽しんでみて、またそのときがきたら考えようかな。

先のことは、わかんないですもんね」

先のことはわからない。お腹のまんなかにストンと落っこちるように、そのことばが響きました。

いまを変えたい、何かはじめたいという変化を望む気持ちと、未来を心配する気持ち。

変わろうと奮起するのもひとつだけれど、先のことはわからない。もしかしたら、「いま」にじっくり取り組むうちに、おのずと「変わっていく」こともあるのかもしれません。

熱々のシュウマイはとてもジューシーで、うまみたっぷり。みんなでハフハフと頬張りながら、「こんなふうに生きたいな」の選択肢をひとつ、教えていただきました。

【写真】砺波周平


もくじ

一田憲子

編集者、ライター。フリーライターとして女性誌や単行本の執筆などで活躍。『暮らしのおへそ』『大人になったら、着たい服』(主婦と生活社)『暮らしのまんなか』(別冊天然生活)では企画から編集、執筆までを手がける。全国を飛び回り、著名人から一般人まで、多くの取材を行う。12月末に自身の仕事のプロセスを綴った書籍をPHP研究所より発売予定。ウェブサイト「外の音、内の香」http://ichidanoriko.com/​