
年齢を重ねると、親との向き合い方にも変化が生まれます。
ケアという言葉も身近に感じる今、英文学者の小川公代(おがわ・きみよ)さんによるエッセイ『ゆっくり歩く』を手に取りました。
忙しく早歩きのように生きてきた娘と、難病によりゆっくりとしか歩けなくなった母親。思いがけないケアをきっかけに、ふたりが「文学」を通じて交流し、ともに新しい世界にたどり着こうとする過程をありありと、ときにユーモラスに描いた一冊です。
誰もが時間と共に老いていき、できないことが増えるのは当然のこと。そのとき、ケアと文学はどのように交わるのでしょうか。
もっと話を聞きたくて、小川さんの仕事場を訪ねました。
母のパーキンソン病と、ケアのはじまり
▲小川さんを囲む家族の歴史が綴られ、ドキュメンタリーのようでもある『ゆっくり歩く』(医学書院)。
地元・和歌山でひとり暮らしをしていた小川さんの母親が、パーキンソン病と診断を受けたのは2017年のことでした。
手足の震えやこわばりなどの症状とともに、ゆっくりと身体の運動機能が損なわれていく病で、原因や治療法が確立されていない指定難病とされています。
小川さん:
「今は母を東京に呼び寄せ、うちから自転車で5分ほどの施設で暮らしています。
病気が分かった直後は、東京と和歌山とで離れて暮らしていましたが、おたがいに行き来をしながらなんとかやっていたんです。母が東京の病院に通うのに付き添い、一緒にごはんを食べながら、ああだこうだとなんでもない話をして。
けれどもコロナ禍で、母は京都の病院への転院を余儀なくされ、気軽に会いづらくなってしまいました」
直接会えれば、会話はなくとも伝わることがあります。けれども電話ではそれもままなりません。
さらに追い討ちをかけるように、ひとつの事件が起こりました。
母を襲った "エスカレーター事件"

ことの顛末はこうでした。
京都の大学病院で、母親が上りエスカレーターに乗っていると、前に立っていた女性が突然、気を失ったのです。思わず手を差し伸べようとしたものの、当然ながら受け止めきれず転落。3度、4度と転がりながら落ちてしまいました。
小川さん:
「母は咄嗟に手が出てしまったんですね。さいわい大事には至りませんでしたが、頭を打ったこともあり、パーキンソンの症状が悪化し、震えが以前よりもひどくなったんです」
さらには精神的なショックも大きかったようです。口を開けば「なんで手を出してしまったんやろう」ばかり。強い落ち込みと不安でどんどん言葉も少なくなっていく母親を励まそうと、小川さんはくり返し声をかけました。
「助けようとしたお母さんはえらいよ」
「人助けはお母さんの得意なことでしょう、すごいことだよ」
けれども母親の落ち込みは、ますますひどくなるばかり。いつまでもエスカレーター事件に留まってしまう姿を見るのは、小川さんにとっても苦しいことでした。
わたしは、どうしてあげたらいいのだろう?

小川さん:
「わたしにしてみれば、『えらい、すごい』と母に言っているのにどうしてなぐさめることができないんだろうと、はじめは違和感ばかりでした。
でも、今思えば、表面上の気持ちのいい言葉ばかりを並べて、母の気持ちを本気で考えられていなかったのだと思います。英語に『be in someone's shose』という慣用句がありますが、相手の立場になって考える、それが足りていませんでした。
母は、戦後の混乱期に事業を興した祖母を助け、結婚後は父の英会話学校を手伝い、子育てを優先し、ずっと『誰かのために』とケアする側の人生を送ってきた人なんです。
母にとってみたら、どんなにえらいと言われても、自分が一生をかけてきたケアの精神が、あのエスカレーター事件につながるんだと言われたら、自分は間違っていたと、人生を全否定されているのも同然だったのだと思い至りました」

落ち込んでいる母親とは会話すらままなりません。その分かり合えないハードルを超えたいという気持ちは、次第に小川さんを文学へと向かわせました。
これまでに読んださまざまな物語を、少しずつ母親に語って聞かせるようになったのです。それは伝えたい思いの代弁でもありました。
小川さん:
「物語なら、たとえ返事が『ふーん』だけでも、母が聞いてくれている限りは時間を共有できます。
そのうちに、母も少しずつ自分の意見を言うようになっていきました。
やがて、これは母とわたしの共同作業であり、母へのケアのひとつなのかもしれないと考えるようになったんです」
それならば、身体がどんどん弱り、すっかり変わってしまう、そんなコントロールできない現状を受け入れるような物語はないだろうか。そこで思い当たったのが、「不思議の国のアリス」です。
思い通りにならない身体を生きる、アリスの物語

「それならアメリカのディズニーランドも行ったし、よう知ってるけど……」。
アリスがウサギを追いかけて穴に落ちて、食べたり飲んだりして身体が大きくなったり小さくなったりする童話やろと、さして興味を示さない母親に、小川さんは続けました。
小川さん:
「いやいやお母さん、じゃあ、どうしてアリスが大きくなったり小さくなったりしたか知ってる? あれね、自分で大きくなろうとか小さくなろうとかしたわけではないのよ。アリスは自分では身体がどうなるか、ちっともわからなかったのよ、って。
物語のなかで、アリスは小瓶に入った液体を飲んで突然小さくなるけれど、それを意図して飲んだわけではありません。
『私をお食べ』と書かれたお菓子を見つけたときも、大きくなるのか小さくなるのか『どっちかしら』と不安でたまらない。アリスは、身体の変化を自分でコントロールできないんです。
『自分の身体なのに、どうなるかわからないなんて、そんなの嫌だと思わない? でもきっと、これってお母さんも一緒だよね』。そう伝えると、母がだんだん前のめりになってくるのがわかりました」

パーキンソン病はふるえが始まると、いつ終わるかわかりません。スプーンを口に運ぶことすら思い通りにはいかなくなります。
そんなふうに、自分の意思に反して身体の自由が効かない母親にとっては、重なるところも大きかったのだろう、と小川さん。
さらにアリスは、大きくなりすぎた身体をなげき、大粒の涙を流します。するとその直後、今度はみるみる身体が小さくなって、自分の流した涙の池で溺れそうになるのです。
小川さん:
「意図したわけではないのに、それでピンチに陥ってしまう。まさに、反射的に手を出したことで、エスカレーターから落ちてしまった母に "自分の物語だ" と思ってもらえた瞬間でした。
母は、『えぇ〜!』なんて言いながら、映画を観るように目をキラキラさせて、アリスの世界に入り込んでいました。
物語をきっかけに、自分の身体について考えるなんて新しい経験だったのだと思います。そこには、落ち込んでいる様子はまったく感じられませんでした」
今の自分は「ほんとうの自分」ではないのだろうか

興味深く聞き入る母親を前に、小川さんも感情が込もり、いろいろなキャラクターになりきって物語は進みました。
そして中盤、森の中で、キセルを持った芋虫が、小さなアリスに問います。「お前は誰だ?」と。大きくなったり小さくなったり、自分のことがさっぱりわからなくなったアリスに対し、哲学的な問いを投げかけるシーンです。
小川さん:
「『お母さんだったら、なんて答える?』と尋ねてみました。
物語の世界に入り込んでいた母は、すっかりアリスと自分とが重なっていたのでしょう。しばらく考えたあと、『やっぱり、元気やった頃のわたしやろ』と答えたんです。
今の自分は、ほんとうの自分じゃない。元気だった頃、つまり誰かに料理を作ったり、自由に動き回ったりしていた頃こそが "自分" だと言うのです」

涙ながらに話す母に、小川さんは伝えました。
「そうやなあ、お母さんがそう思うのもなんかわかる気がするよ。
でも、ちょっと考えてみて? 芋虫的な発想からしたら、今、目の前にいるお母さんも『ほんとうのお母さん』じゃない?
だって芋虫は蝶になるんだから。芋虫である自分と、蝶になった自分。どちらも嘘ではない。どちらの "自分" も、ほんとうに存在できているんじゃないかな」。
小川さん:
「自分の意思とは関係なく、思い通りに動かせない身体になってしまったとしても、それも自分なんじゃないか。そう伝えたときの、『ほんまやなあ……』という、母のハッとした表情は忘れられません」

しかし理屈ではわかっていても、変化というのは誰しも受け入れ難いものです。
小川さん:
「母は病気で身体の動きが少しずつ衰えていますが、同時に老いという自然の摂理も重なり合って進行しています。病気のせいだけではないんです。
人間がかならず老いて死ぬように、芋虫もかならず蝶になる。これは普遍であり、不可逆的な変化ですよね。
だから、その変化を否定し、『元気だった頃の自分が本来の自分』というのは、どうなのだろうか。そんな話を母と延々としました」
時間は巻き戻せません。
病気や老い。そんな抗えないことを前にしたとき、わたしたちはどう向き合い、何に人生のよろこびを見つけていけば良いのでしょうか。
後編では、この問いについて小川さんと一緒に考えます。
(つづく)
【写真】馬場わかな
もくじ
第1話(3月2日)
思い通りにならない身体を受け入れる。難病の母と読んだ「不思議の国のアリス」
第2話(3月3日)
母とゆっくり歩くうち、「すごいね」より「おもしろいね」を見つめられるように
小川 公代
英文学者。1972年和歌山県生まれ。ケンブリッジ大学政治社会学部卒業。グラスゴー大学英文科博士号取得。上智大学外国語学部教授。専門は、イギリスを中心とする近代小説、ロマン主義文学、医学史。著書に「ゆっくり歩く」のほか、「ケアの倫理とエンパワメント」「ケアする惑星」「世界文学をケアで読み解く」など多数。
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