【わたしのケアの物語】後編:母とゆっくり歩くうち、「すごいね」より「おもしろいね」を見つめられるように

【わたしのケアの物語】後編:母とゆっくり歩くうち、「すごいね」より「おもしろいね」を見つめられるように

ライター 藤沢あかり

英文学者の小川公代(おがわ・きみよ)さんが、パーキンソン病の母親をケアする日々を、自身の半生とともに綴ったエッセイ『ゆっくり歩く』。この本では、ふたりがさまざまな「文学」を通じて交流し、ともに新しい世界にたどり着こうとする過程がありありと、ときにユーモラスに描かれています。

物語を母親に聞かせて語り、一緒にわくわくしたり、おもしろさを共有すること。この時間を、小川さんは「ひとつのケア」と話します。

前編では、「不思議の国のアリス」を通して、思い通りにならない身体とほんとうの自分とは何か、二人で話したエピソードについてお聞きしました。

病気や老い。そんな抗えないことを前にしたとき、わたしたちはどう向き合い、何に人生のよろこびを見つけていけば良いのか。後編では、この問いを小川さんとともに考えます。

前編から読む

母にとって「人生の成功」ってなんだろう?

小川さんの母親は、幼い頃から働く祖母を支え、結婚してからは父と子どもたちのケアも担ってきた人でした。その一方で、琵琶の奏者でもあり、関西のあちこちに招かれては演奏し、いつか自分の時間ができたら全国を回ることが夢だったといいます。

小川さん:
「周囲からはずっと、『すごいね』と尊敬の言葉をかけてもらう人でした。それが病気によって、琵琶どころかスプーンすら持てなくなってしまったわけです。

『すごいね』と言われ続け、目標を達成することが成功だと信じてきた人が、なにもできなくなった。人生にどう折り合いをつけていいか、わからなかったのだと思います」

では、目標に向かうことや達成を得られなくなった人には、もう人生の成功はないのだろうか。この先に、何を求めていけばいいのか。そもそも人生の成功ってなんだろう……?

小川さん:
「『すごいね』に代わるもの、それは『おもしろいね』しかないと思いました。これは、勅使河原真衣(てしがわら・まい)さん* がおっしゃっていることでもあります。

ゴール・オリエンテッド(ゴール思考)とプロセス・オリエンテッド(プロセス思考)という言葉があります。前者は目的や目標を先に決めて、そこにむかって進もうという考え方、後者は結果よりも、そこに至るまでのプロセスを重視する考え方です。

母と文学の話をするときには、何のゴールもありません。なんらかの答えや達成感を得ようという気持ちもないんです。

『不思議の国のアリス』以外にも、母と大切な話ができた文学作品はいくつもありますが、それでも基本的に話し始めるときは、一緒に物語を味わって、楽しいね、おもしろかったね、で十分だと。まさにプロセスを味わっています」

*組織開発専門家で、当店の特集「世界は分業でできている」にもご出演いただいた。近著に『人生の「成功」について誰も語ってこなかったこと』(KADOKAWA)。


少しでもよくしたいと思ったけれど……

とはいえ母親がパーキンソン病と診断され、リハビリを始めたばかりの頃は、二人ともゴールを目指していたと言います。

小川さん:
「あの頃は、今よりもよい状態にしよう、少しでも身体を治そう、コントロールできるようにしていこうという、はっきりした『目標』がまだありました。

母自身も、一生懸命リハビリを受けて、家でも朝晩続けて筋肉をつければ、身体が今よりも良くなっていくんだと、やる気に満ちていたと思います。

ところがエスカレーター事件*で、突然、全部できなくなってしまったんです。もう、あの頑張りは何だったんだという感じですよね。ゴールを目指して頑張っていたのに、それを見失ったわけですから。

成功や達成といった価値観から抜けきれないまま、ふたりでゴールを見失い、どこに行けばいいのかわからずもがきながら辿り着いたのが、『プロセス』を味わう文学という場所だったのかもしれません」

*母親が京都の大学病院で上りエスカレーターに乗っていたとき、前に立っていた女性が突然気を失って、受け止めきれず転落した出来事のこと。詳しくは前編に。


ケアとは、想定外を受け入れていくこと

結局、自分の身体すら予測不可能でコントロールができない、ということを受け入れられたのは、エスカレーター事件のあとで、母親と一緒に「不思議の国のアリス」を読んだことがきっかけになりました。

けれど思えば、それ以外にも、予想外のままならなさはたくさんありました。

小川さん:
「コロナ禍で、実家の和歌山とわたしたちの住む東京を、自由に行き来したり、通院に付き添いができなくなったこともそうです。

その後、母は事情により住み慣れた和歌山の実家を手放すことになりました。単身でマンションに移り住みましたが、次第にそれも難しくなり、東京へ引っ越すことに。

東京では、やっと見つけたパーキンソン病患者専用の施設に入居したのに、いざ住んでみると母よりも重い症状の方に向けたケアが中心だったので、3カ月で退去することに。今はまた別のサービス付きの高齢者住宅に暮らしています。

状況はどんどん変わるし、何でもやってみないとわからない。それを受け入れられるようになりました。ケアの共同体というのは、予想外のことが起きても、そのときどきの家族の状況や、母の身体と相談しながら、なんとかやっていくしかないんですよね」

今、こうして生きている、生かされている身体と向き合っていこう。今、何ができるのか考えよう。小川さんは、そう考えるようになりました。

小川さん:
「10代でイギリス留学をしたとき、びっくりしたことがありました。数学も経済学も、単純な公式や暗記に頼らず、すべてにおいて『Why?(どうして?)』を問われるのです。

先生は答えを教えてくれません。大変だったけれど、みんなで考える楽しさがありました。わたしのプロセスを大切にする考え、そしてケアへの思いの原点は、イギリスの教育にあるのだと思います。

あの頃も、大変なこと、苦しいことがたくさんあったけれど、振り返れば楽しかったし充実していました。

すべての思い出は困難の中のプロセスにあるんです」


人と人とが関わり合って、プロセスを味わって

大学卒業後、英文学研究者となり、30年以上、ケアの観点から文学を読み解いてきた小川さん。難病の母親のケアを経験している今、あらためて思うことがあります。

小川さん:
「もしも今誰かから、ケアはゴールありきなのだと言われたら、つまらなく感じてしまうかもしれません。

たとえば母の身体を鍛えてこういう状況を目指しましょう、と言われても、当事者でないわたしは、冷たいようですが、頭のどこかで『母が頑張るべきこと』『自分の責任ではない』と感じてしまうでしょう。

ゴール・オリエンテッドは個人の達成なんですよね。一方でプロセス・オリエンテッドは、ああでもないこうでもないと一緒に話し合いながら進めていくことができます」

小川さん:
「わたしたちの人生には、予想もしないトラブルや困難がつきものです。それに絶望するのではなく、どう付き合っていくかを考えていく必要があります。

パーキンソン病でゆっくりとしか歩けなくなった母と一緒にいるようになった今、それがようやく腑に落ちました。

さらに、ひとりではなく周囲に助けを求め、巻き込みながらやっていけたらしあわせだと思うんです。

もちろん、人と人とが関わり合えば、不満も生じるしケンカも起こる、化学反応の毎日です。母とわたしも、『なんでわかってくれないの?』と腹を立てたり悲しんだり、そんなことが今も山ほどあります。

でも、本音で気持ちをぶつけ合うことで、思いがけない感情を知ったり、おたがいの間違いに気づけたりもしています」

▲ケアにまつわる著書も多数。『ケアの倫理とエンパワメント』(講談社)は、国内外の文学を横断しながらケアの倫理を見つめた一冊。

小川さん:
「良いか悪いかで言えば、もちろん母が難病になったことは不運でしかなく、『悪い』ことが起きたとしか言えません。

ただ、娘の立場からすると、母をケアできてよかったこともあります。病気がなければ、母とは離れて暮らしたまま、親子で一緒に時間を過ごしたり、ご飯を食べたりすることもありませんでした。とことん思いを伝え合ったり、文学について深く話すこともなかったはずです。

現代社会では、誰にも寄りかからずに "個" として生きていけます。わたしも母もそうしてきました。でも、寄りかからなければ生きていけなくなったとき、人は周囲を頼り、依存し合っていく必要があります。

相互依存、つまり、おたがいに関わり合うというのは大変なことです。でもそこに想像もしなかった祝福も降りてくる。功罪のようなものかもしれません。

わたしは母が生きているうちに、相互依存の経験ができた。これは奇跡のようなことだと感じています」

誰もが関わり合って生きていく社会の中で、プロセスを味わっていく。

「すごいね」よりも「おもしろいね」に注目してみれば。ゴールや目標だけではなく、そこに至るプロセスも大事にしてみれば。

年齢を重ねてからの家族との関わり方、そして人生のありようも、変わる予感がしています。

(おわり)

【写真】馬場わかな



もくじ

小川 公代

英文学者。1972年和歌山県生まれ。ケンブリッジ大学政治社会学部卒業。グラスゴー大学英文科博士号取得。上智大学外国語学部教授。専門は、イギリスを中心とする近代小説、ロマン主義文学、医学史。著書に「ゆっくり歩く」のほか、「ケアの倫理とエンパワメント」「ケアする惑星」「世界文学をケアで読み解く」など多数。

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